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2011年12月22日木曜日

太陽がいっぱい


■ Buenos 太陽がいっぱい

 まぶしくて目が開けられないのは、ルネ・クレマン「太陽がいっぱい」の舞台だからでしょうか。ナポリを見て死ね。人はそう言います。だからずっと来ませんでした。でも、もういいかな。そこで、来てみました。
 ズタ袋を背負って前傾で歩く人々。顔は黒いが目がギラギラと白い。だが北アフリカ、パキスタン、中東、みな出身地は違うようだ。旧市街、薄暗い路地では子どもたちがボールを蹴っている。両脇の壁を仰ぐと、大漁旗のように窓窓から洗濯物がはためく。それは貧しさではなく、そんなに布を持っているぞという豊かさの誇示ではないか。
 チャオ。チャオ。声をかけてくる商店主。佐久間のチャオ、長いこと食べてないな。で、人生で最もうまいピザを路地で食べた。3ユーロ。レモンチェッロは1ユーロ。丘に登って、はるか向こうにヴェスビオ火山がどしりと座り、たゆたう海面がギラギラと輝く、こちら側の丘には家並みが連なり、赤紫とオレンジの屋根にベージュの壁、緑の窓枠。アテネやリスボンのたたずまいに似るのは当然だが、ハノイやマラケシュに通じる気を感じた。
 ナポリに、来てみました。

 ここでサミットが開かれたのは94年7月。サミット開幕日に金日成主席が逝去し半島情勢の変動が予測され、ロシアが政治協議に正式参加することとなってソ連封じ込めというサミットの性格自体も変更を余儀なくされるという危機感のなか、村山総理は体調不良で倒れたりして、政治は大丈夫なのかい?という季節。今とホントそっくりです。
 94年と2010年が酷似していることは既に書きました。日米で政権交代があった後にメディア情勢が大きく動いた2つの年です。94年はアメリカの情報ハイウェー構想に日本もマルチメディア戦略で呼応していました。それがPC/インターネットとケータイの爆発的な普及につながるのですが、当時はネットと国家の距離感や国家間の政策ヘゲモニーといった綱引きが横たわっていて、今はないスリリングな緊張感が漂っていました。面白かった。

 サミットに少し先立って、チェコで開かれたインターネット世界大会に、スパイのぼくは本国の指示もないまま潜入。その場はアメリカvs EUの折衝の場となっていました。日本のプレゼンスがないまま話が進むことを警戒し、「民間主導・基盤整備・1兆ドル市場」とメモを書いて、EUの代表とおぼしき人を捕まえて、日本から来た、この日本政府のスタンスをプレゼンしてくれと頼みました。彼はセッションで発表してくれました。EUの代表の顔を見たときフランス人だと思ったのでたどたどしいフランス語で頼んだのが功を奏したのでしょう。英語だったら無視された気がします。そんな具合で当時ぼくはよく働いていました。それがよかったかどうかはわかりませんが。

 ナポリからサレルノに出て、アマルフィに向かいます。バスはすし詰め。若いイタリア兄ちゃんがぼくの顔をみるなり「ナカムラ!」と叫ぶ。え、知ってるのか?なぜだろう。と頭を巡らせていると、続いて、「ナカタ!」「スシ!」「トーシバ!」「ヒロシマ!」と来た。そうか、シュンスケのことか。シュンスケもナカタもセリエAで活躍してましたからね。
 今から10年前、モロッコの市場を歩いていると、シャッキシャン、シャッキシャン、と子どもたちから声がかかる。何だろうとよくよく聞いてみると、ジャッキーチェンのフランス語読みなのでした。あぁ、東洋人を初めて見かけたのね。20代の若者は、ナカタナカタと声をかけてきました。イタリアで活躍していた彼の映像がヨーロッパの衛星経由で北アフリカにも流れていたのです。
 この界隈は、ナルト、ワンピースよりも、ナカタ、ナカムラなのでしょう。すばらしいキラーコンテンツ。「ナガトモ!」と呼び止められるのはまだ先でしょうか?

 さて、もっと大事なことは、ナポリタンです。ジェノバでジェノベーゼを喰い、ボローニャでボロネーゼを喰ったぼくは、やはり本場ナポリでナポリタンを喰うべし。しかし、やはり見つかりません。甘いケチャップにウインナーとタマネギ。ナポリのかたがた、これはどこで喰えますか。

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