Twitter

2011年12月15日木曜日

魂のチネチッタ

■ Buenos 魂のチネチッタ 

 ローマとは何ですか。いい質問だ。

 フェリーニで言えば「甘い生活」ヴェネト通りの退廃であり、「フェリーニのローマ」が描く古代から今に至る高貴な猥雑であり、「魂のジュリエッタ」の描く混沌。「カサノバ」のヴェネチアとは厚みが違う。パゾリーニで言えば「アッカトーネ」「マンマ・ローマ」の苦悩であり、「テオレマ」のミラノの乾きとは違う。ヴィスコンティで言えば「家族の肖像」であり都会の代表「若者のすべて」ミラノとは違う。ローマにはローマの顔があり、去勢された「ローマの休日」をローマなどと考えてはいけない。

 日本、フランスと並ぶ三大映画文化を誇るイタリア。ヴェネチア映画祭は1932年にスタートしていて、1946年のカンヌより歴史が厚いのです。そして、ムッソリーニが国策としてローマに建設したスタジオや学校を含む映画都市が「チネチッタ」です。ここからロッセリーニ、フェリーニ、アントニオーニ、ヴィスコンティなどが産まれて行きました。デ・シーカ、セルジオ・レオーネ、タヴィアーニ兄弟、ベルトリッチ、ジュセッペ・トルナトーレ、ナンニ・モレッティ、ため息の出る創造ライン、そのエンジンです。
 しかし、イタリアも他国と同様、ハリウッドの嵐に飲み込まれ、興行面では苦労してきました。三国同盟の仲間ドイツほど戦後打撃を受けたというわけではないのですがね。ドイツ映画はナチス国策色が強すぎたという特殊事情がありますし。——なお、ファシストを追放して連合側についてから終戦を迎えたため、自分たちを戦勝国だと信じ切ってるイタリア人が多いのには驚きます。国がガタガタしても幸せでいられる技法には学ぶところ多し。

 チネチッタ。90年代前半、パリ滞在中、何度か訪問を申込みました。でもかないませんでした。ダメだダメだと。何やら相当な機密があるに違いない。
 あちこち書いたことですが ---- 当時、ガットウルグアイラウンド最終局面で、映画を巡り米欧の対立がありました。映画を産業とみて市場開放を迫るアメリカ・クリントン政権に対し、映画は文化だとしてハリウッドの進出を食い止めようとするヨーロッパの代表はフランス・ミッテラン政権。イタリアもドイツもフランスに同調しつつ、敗戦国としては民族文化を前面に出しにくく、フランスの背後でそーだそーだ状態だったのですが、その狭間で態度を決めることができない日本からパリに派遣されていたぼくは、ヨーロッパのコンテンツ政策に肉薄したいため、あの手この手でウロウロしていたのです。文化省などフランスの関係者には飲ませたり喰わせたりしてある程度動きは聞き出すことができていましたが(同じ仕事をしていたアメリカの駐在員は95年になってスパイ罪で国外退去処分になり、そこで初めてぼくは自分がスパイであることを知った!)、イタリアはとんとムリ。通信政策にしろ郵便局民営化にしろ、イタリアという国は調査しようとしても上から下まで言うことがテキトーで要領を得ず、決まったことがスグひっくり返り、とにかくぬるぬるとつかまえようのない先進国でありました。あーあ、でもチネチッタには行きたかったなぁ。

 そのチネチッタが突然、2011年の夏から秋にかけて公開されるという報に接しました。ホントかよ?疑わしいなぁ。でもこの機会を逃すと死ぬまでに入れるかどうかわからない。と思い、かけつけました。
 なんのことはない、「入れ入れ」入ることができました。「ゆっくり遊んで行ってね〜」だって。なんじゃいな。
 しかし改めて感激。ここで「甘い生活」も「8 1/2」も「アマルコルド」も撮られたのですね!とセットを見て回りました。おお、「カサノバ」の金星人のセットがある! ところで8 1/2は今の若者はハチトニブンノイチなどと発音するのでしょうか可哀想に。ハッカ1/2と呼ばなければグイドもサラギーナも憮然とするぞ。
 チネチッタには博物館があり(思い切り公開してるがな)、その床は投影型のサイネージ。さすが洒落ております。長年の宿題を一つ果たしたなぁ。

○ 補足


 チネチッタにたどり着くのは結構たいへんだったんです。チネチッタのバス停に降りてから、場所がなかなかわかんなくて、4人の人に聞いたんですが、やっぱみんな言うことがいいかげんでアッチ行ったりコッチ行ったり。しかもですね、スペイン広場から地下鉄で一本のはずが、ストか何かですかね急にテルミニ駅で降ろされて、乗客は「またかよ」てな風情で誰も文句を言うことなくトボトボとバスに乗り換え、ぼくもついて行って何とかなりました。まぁおかげで地下鉄と駅とバスのサイネージを観察できましたが。   ローマやのう。

0 コメント:

コメントを投稿