■メディアとヒトのおつきあい、ふたたび。 前回(15年たって、ウェアラブル。)の続きです。
ウェアラブルでユビキタスになる。90年代後半にはそう見られていました。
メディアが人に近づき、友だちになる。コンピュータは環境に埋め込まれ、姿を消していく。
ここにあるのは、99年5月にニューメディア誌に掲載したコラムです。「メディアとヒトのおつきあい」の巻から抜粋します。
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技術の進歩は、じゃあどっちに行こうとしているのか。たとえば私の所属するメディアラボは、何を目指そうとしているのか。SFではなく、現実の開発動向に即して、少し強引に読み取る練習をしてみましょう。
まず一つは、メディアがヒトに近づくという方向です。
ウェアラブルという呼び名のとおり、コンピュータは服やメガネや手袋や靴に変身して、物理的に私と一体化します。紙のようなコンピュータも開発されています。より正確には、コンピュータの機能を持つインクなんですが、つまり、ぺらぺらで、端末機というイメージはなくなろうとしているんです。
そして、映像から五感・体感へ、テリトリーを広げます。見聞きするだけでなく、握ったり、抱いたり、蹴ったりするものになります。触覚を通信するデバイスも開発されています。いずれニオイをかいだりナメたりすることもさせてくれるでしょう。
さらにメディアは私の意思や感情を理解します。キーボードや言葉でこちらから指令するだけでなく、コンピュータが私の視線、表情、身振りを知覚し、体温や心拍を感じとるような技術も実用段階に来ています。ボストンマラソンで、チップを飲んだランナーが、おなかから体温の変化を発信するなんてこともやって ます。肉体のコンピュータ化!神経のビット化!
考えるコンピュータは、対話する相手になります。私の行動、表現、感情の履歴をとっておいて、私以上に私のことを知っているヤツになります。私の記憶は、ネットワークを漂っているのです。これまで、私が指示するデキの悪い部下か、私に知識を与える教師かのどちらかだったコンピュータは、やっと友達になろうと努めているのです。友達なら、デキが悪くても、許す。だって友達じゃないか。
そして、エージェントと呼ばれるソフトが情報の海を泳ぎ、私が喜びそうなニュースやウワサや知恵を編集して、ささやいてくれます。微笑んだり、なぐさめたりしてくれるかもしれない。せいぜい思考の道具だったメディアは、いよいよ情念を分かち合うためのものになろうとします。情念の交換。これがそもそも言葉やメディアを人類が産んだ動機だったわけです。
もう一つは、メディアが自立するという方向です。
服や靴だけではありません。家電、家具、カベ、クルマ、道路、そう、全てのモノ、全ての環境にコンピュータが埋め込まれていきます。私の身の回りにある モノはみなメディアです。いや、私じしんも肉体メディアなのでした。割礼みたいな儀式でチップを局部に埋めるのかな。ああ、またヘンなこと言っちゃった、 カット!カット!
ヒトとモノは、ビットで理解し、共生します。これは、私とモノどもという二項対立を飛び超えて、モノとモノ、環境と環境がコミュニケートし、理解し合うという状況でもあります。事故の情報がクルマや道路から次々に連絡され、交通がいちばんスムーズになるように信号が自分をコントロールします。人形が他の人形にプログラムを伝えてダンスを仕込み、人形たちのコミュニティでポップな踊りが流行ったりします。
テレビにカラー番組が出てきたころ、新聞のテレビ欄にもテレビ画面にもカラーという表示がありましたけど、ぜんぶがカラー番組になったら、もうカラー番組とは呼ばず、ただの番組になりました。同じく、あらゆる物体がメディアを備えるのなら、それはもうわざわざメディアとは呼びません。つまり、メディア技術の開発は、メディアと呼ばれるものををなくそうとする方向に進んでいるわけです。メディアをなくせ。
こうして技術は、善悪を問うヒマもなく、わき目もふらずに完成を目指します。でも、同時に、メディアにとって大切なことは、美です。高速、知的、安価という技術に加え、エレガント、エロチック、カッコよさ、というのも条件になってきます。ウェアラブルにしろ何にしろ、技術が受け入れられていくには、そこが決め手になります。 -------------------------------------
どうですか。これも前回と同様、来てませんよね。
日本では99年にimodeが出現、ケータイが耳と口のための電話機から、目と指のためのメディアに進化しました。世界はスマホの普及でやっとこれからという状況です。でも端末はなくならず、小型化はしたものの、存在感は増すばかり。そしてクラウドネットワークがぼくの履歴を記憶して、いろんなことを推薦するようになりました。でもそれは、友だちとしてではなく、商人としてです。友だちはリアルな友だちのまんま、その後登場したソーシャルメディアでつながって、むかしの友だちを改めて発見したりして、結局、メディアの向こう側でヒトの存在感が増しています。
メディアが埋め込まれるのはようやく見えてきましたかね。センサーからデータが立ちのぼり、自販機やレジからもビッグなデータが集まってくる。マシン・トゥ・マシンが現実のものとなってきました。それが社会にどう作用するのか、その空想はまだできていません。15年前にすぐ来ると空想していたものがまだ来てはいないとはいうものの、次に何が来るか、空想し直したってバチは当たりますまい。またやってみようと思います。
ウェアラブルでユビキタスになる。90年代後半にはそう見られていました。
メディアが人に近づき、友だちになる。コンピュータは環境に埋め込まれ、姿を消していく。
ここにあるのは、99年5月にニューメディア誌に掲載したコラムです。「メディアとヒトのおつきあい」の巻から抜粋します。
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技術の進歩は、じゃあどっちに行こうとしているのか。たとえば私の所属するメディアラボは、何を目指そうとしているのか。SFではなく、現実の開発動向に即して、少し強引に読み取る練習をしてみましょう。
まず一つは、メディアがヒトに近づくという方向です。
ウェアラブルという呼び名のとおり、コンピュータは服やメガネや手袋や靴に変身して、物理的に私と一体化します。紙のようなコンピュータも開発されています。より正確には、コンピュータの機能を持つインクなんですが、つまり、ぺらぺらで、端末機というイメージはなくなろうとしているんです。
そして、映像から五感・体感へ、テリトリーを広げます。見聞きするだけでなく、握ったり、抱いたり、蹴ったりするものになります。触覚を通信するデバイスも開発されています。いずれニオイをかいだりナメたりすることもさせてくれるでしょう。
さらにメディアは私の意思や感情を理解します。キーボードや言葉でこちらから指令するだけでなく、コンピュータが私の視線、表情、身振りを知覚し、体温や心拍を感じとるような技術も実用段階に来ています。ボストンマラソンで、チップを飲んだランナーが、おなかから体温の変化を発信するなんてこともやって ます。肉体のコンピュータ化!神経のビット化!
考えるコンピュータは、対話する相手になります。私の行動、表現、感情の履歴をとっておいて、私以上に私のことを知っているヤツになります。私の記憶は、ネットワークを漂っているのです。これまで、私が指示するデキの悪い部下か、私に知識を与える教師かのどちらかだったコンピュータは、やっと友達になろうと努めているのです。友達なら、デキが悪くても、許す。だって友達じゃないか。
そして、エージェントと呼ばれるソフトが情報の海を泳ぎ、私が喜びそうなニュースやウワサや知恵を編集して、ささやいてくれます。微笑んだり、なぐさめたりしてくれるかもしれない。せいぜい思考の道具だったメディアは、いよいよ情念を分かち合うためのものになろうとします。情念の交換。これがそもそも言葉やメディアを人類が産んだ動機だったわけです。
もう一つは、メディアが自立するという方向です。
服や靴だけではありません。家電、家具、カベ、クルマ、道路、そう、全てのモノ、全ての環境にコンピュータが埋め込まれていきます。私の身の回りにある モノはみなメディアです。いや、私じしんも肉体メディアなのでした。割礼みたいな儀式でチップを局部に埋めるのかな。ああ、またヘンなこと言っちゃった、 カット!カット!
ヒトとモノは、ビットで理解し、共生します。これは、私とモノどもという二項対立を飛び超えて、モノとモノ、環境と環境がコミュニケートし、理解し合うという状況でもあります。事故の情報がクルマや道路から次々に連絡され、交通がいちばんスムーズになるように信号が自分をコントロールします。人形が他の人形にプログラムを伝えてダンスを仕込み、人形たちのコミュニティでポップな踊りが流行ったりします。
テレビにカラー番組が出てきたころ、新聞のテレビ欄にもテレビ画面にもカラーという表示がありましたけど、ぜんぶがカラー番組になったら、もうカラー番組とは呼ばず、ただの番組になりました。同じく、あらゆる物体がメディアを備えるのなら、それはもうわざわざメディアとは呼びません。つまり、メディア技術の開発は、メディアと呼ばれるものををなくそうとする方向に進んでいるわけです。メディアをなくせ。
こうして技術は、善悪を問うヒマもなく、わき目もふらずに完成を目指します。でも、同時に、メディアにとって大切なことは、美です。高速、知的、安価という技術に加え、エレガント、エロチック、カッコよさ、というのも条件になってきます。ウェアラブルにしろ何にしろ、技術が受け入れられていくには、そこが決め手になります。 -------------------------------------
どうですか。これも前回と同様、来てませんよね。
日本では99年にimodeが出現、ケータイが耳と口のための電話機から、目と指のためのメディアに進化しました。世界はスマホの普及でやっとこれからという状況です。でも端末はなくならず、小型化はしたものの、存在感は増すばかり。そしてクラウドネットワークがぼくの履歴を記憶して、いろんなことを推薦するようになりました。でもそれは、友だちとしてではなく、商人としてです。友だちはリアルな友だちのまんま、その後登場したソーシャルメディアでつながって、むかしの友だちを改めて発見したりして、結局、メディアの向こう側でヒトの存在感が増しています。
メディアが埋め込まれるのはようやく見えてきましたかね。センサーからデータが立ちのぼり、自販機やレジからもビッグなデータが集まってくる。マシン・トゥ・マシンが現実のものとなってきました。それが社会にどう作用するのか、その空想はまだできていません。15年前にすぐ来ると空想していたものがまだ来てはいないとはいうものの、次に何が来るか、空想し直したってバチは当たりますまい。またやってみようと思います。

















