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2025年5月26日月曜日

クールジャパン:自転車

クールジャパン:自転車



NHKクールジャパン「自転車」の巻。

 

健康志向もあるが、コロナで電車から乗り換える人も多くて、

自転車に乗る人は年々増えている。

自転車通行帯が設けられたり、シェアサイクルが増えたり、

この10年の間に日本の自転車事情はかなり変わってきている。

 

 

「専門店」

ママチャリや電動アシストなど種類が豊富というのは日本らしいが、

店が多くてサービスもよいというのも日本の特徴。

メンテをして丁寧に長く使うのは、この番組でも

家電や中古品で扱ってきたが、自転車も同じ。

外国人観光客も「ゆっくりコト消費」を求めるようになっているから、自転車はぴったり。

国土交通省でも「サイクル観光」と題して、

サイクリングロードの整備やサイクリングコースの創設などを進めている。

宿泊施設も含め、自転車の環境を整えることが

外国人にとって日本の魅力を高める有効な手段になりそう。

 

「人力アシストギア」

人間が漕いでこそ自転車という信念で、ハイテクに対抗する挑戦を、

13年かけて開発する。すごいひと。

日本の電動アシスト自転車の市場は、まだまだ成長すると言われている。

環境への配慮や都市部の混雑対策などから政府も電動の乗り物に前向き。

ただ電動アシスト付き自転車は、まだ値段も高くて、

バッテリーを使うので重たい。充電する電気代も気になる。

浜元さんのような工夫や製品は世界にも受け入れられるのではないか。

 

「ケイリン部」

自転車競技は世界的な人気種目で、

特にヨーロッパではサッカーに並ぶ人気を誇る。

ただロードレースが中心で、日本発祥のトラック競技である

ケイリンが国際化して、オリンピック種目にもなったのはすばらしい。

そしてこの番組で特集したこともある部活。

ブカツももはや国際語になっている。

自転車競技部のある高校は全国にあって、

ケイリンに参加している学校もある。

個人競技と思われがちだが、仲間との励まし合いなど、チームの力が大事。

ケイリンとブカツ、クールジャパンな組み合わせ。




2025年5月21日水曜日

もう来ないぞ、ニコニコ超会議。

■もう来ないぞ、ニコニコ超会議。



ニコニコ超会議@幕張メッセ。

もう来ない。

と言いつつ今年も来てしまった。

横澤大輔Pと万博・大崎洋さんにくっついて回りました。

夏野さんひろゆきさん岸博幸さんにもごあいさつ。




 

企業系パビリオンは減っていて、草の根オタク系コミュニティが目立つ。

原点回帰で、超会議っぽい。

サステナブル、なかんじ。

ビジネスからユーザに振り、若返った。

ユーザの2500ブースはほぼ即完だそうで。

そして昨年、ニコ超は黒字化したそうで。

たいしたもんです。

 




ボカロと盆踊り。

大音量を出せるのもニコ超の魅力。

iUに大学初のボカロコースを作りたいので、

ニコニコ関係者と相談することにしました。

あちこちのスポットで音出しを自由にしたところ、

互いに音具合を調節して共存する自治が働いたとのこと。

いいコミュニティ、いい文化です。これもニコニコの力。

 




そしてN中高とZEN大学の学園祭。

N高生3万人中、1万人が来た!

それだけでニコ超の若返りもできたのね。

にしても自分の学校の学園祭がニコ超って、いいなぁ。

iUも混ぜてほしい。



さて、もう来ないぞ。

2025年5月19日月曜日

学長くんガチョーン. 古市雅子さん

■学長くんガチョーン. 古市雅子さん


北京大学で唯一、文系の日本人教員。大学から中国に渡ったチャレンジャーです。バルセロナで開いた「オタクサミット」でご一緒して以来、中国から見た日本を教えてもらっています。

 

◆北京大学で教員になるきっかけ

18歳で北京大学へ留学。学部・修士・博士と学んだ。修士・博士論文で満州映画について書いた。李香蘭、山口淑子さんへもインタビューした。その流れで映像文化を教えている。

 

◆なぜ北京へ

海外に憧れがあった。

文学部に行きたかった。自分が大学へ行く際、文学部以外で勉強している姿が想像できなかった。日本の大学の文学部だと、卒業し、秘書など所謂女性がやるような仕事につき、結婚して、子どもを産んでという人生になるのかなと先の先まで想像し、それなら海外へ行こうかな、と。

 

アメリカへは中学3年生のときに学校のシステムで一ヶ月短期留学をした。行ってみて、もうちょっとごはんがおいしいところへ行きたい、とおもった。

アジアの方がもしかしたら歴史も文化もあって楽しいのではないか、と中国へ。

 

北京には20年以上いる。

ずっと中国にいるかは決めていない。そのときそのときでやりたいところがやれるところにいられたらいい。

 

◆大学とは

学生としても教員としても、プラットフォーム。

やりたいことをやれる環境がある。自分になにもなくても、そこに行けば、人やプロジェクトなど、ある程度のリソースがある。なにかやりたい・興味があるときに手を伸ばせる場所にいろんなものがある。聞くこともできる。

そこでなにかをやる可能性を掴めるかもしれない。

 

◆キミたちへのメッセージ

海外に出るチャンスがあったら是非出てほしい。日本じゃないところへ一度は行ってみないと、価値観はいろいろある、いろんな人がいることがわからない。

中学・高校のときは学校が全てだ、と思ってしまうように、大学卒業後も日本にずっといると日本が全てだとおもってしまう。

いろいろな国へ行くと多様性があるのが世界だ、とわかる。

いまの自分を相対視・客観視できることで生きやすくなり、いろんな発想が出るようになる。自分の限界を越えられるひとつのきっかけとなる。

2025年5月12日月曜日

学長くんガチョーン. 山口裕美さん

■学長くんガチョーン. 山口裕美さん


現代アートのチアリーダー。裕美さんがCAからアートの道に転身したころぼくはまだ役人で、アート界の大物から、名もなき卵まで巻き込む姉御の力量に憧れていました。iUキャンパスに置いているブタのウンコでできたブタと、羊のウンコでできた羊も裕美さんが教えてくれたアーティストのもの。一緒にアートの柱を立てていきたい。

 

 

◆いま力を入れていること

Rakuten NFTと一緒にやっている「APJ NFTアート」。キュレーターが入っている。自身もキュレーションしている。画像をNFJ化しているわけではない。プロジェクトベース。アーティストの今までのコンセプトを重視している。

 

例えば中村ケンゴさんの収蔵庫がいっぱいになってしまっている、という美術館を少し揶揄するような作品を100分割して100人に販売した。それを買った人たちを1年後に再会させる前提で売った。今年(2023年)の10月に写真美術館での集まりを準備中。

買ってくれた人のコミュニティを作る。メタバースはリアルと行ったり来たりがおもしろいようにおもう。買ってくれた人同士、作家本人にも会って、感じてほしい。

 

◆一歩先

So-netの会員向けコンテンツとして「Tokyo Trash」という番組をやっていた。

そのころ、東京の自宅から飛ばして札幌の地域FMの番組をやっていた。VAIOが100万円の時代。

 

◆アート思考

分析型の経営・データ型・コンサルなどが行き詰まったのだとおもう。コンサルはすばらしいことだとおもうが、数字になると、偶然も起こることもあるのに同じようなデータになるのかそもそも疑問だった。

 

アーティストはハプニングも取り込む。ピンチもチャンスにできる。

例えば絵を描いているうちに、自分の思ったものと違う色になってしまった場合、考えて、これはよかったのではないかとおもうように変えていく。焼き物の場合もやっているうちに違っていても、なにかをつけてみようと変化をしていく。それを受け入れる体制をアーティストは持っている。失敗したとはおもっていない。これでいいや、と次を考える。そこがビジネスパーソンの気持ちをうっているのかもしれない。

 

◆これからの時代に大事なこと

具体の中心人物だった吉原治良さんは、人のやれないことをやれ、とおっしゃった。

 

具体の仲間はひとりひとり悩んで考えた。白髪一雄さんは天井からロープを吊るして足を使って絵の具で絵を描いた。村上三郎さんは何枚もの障子を疾走して破った。いまから何十年も前、先立ちの日本のアーティストそういうことをやっていた。

電気服、今では世界中の人が知っている。田中敦子さんが感電死しそうになりながら電気服を発表した。周りの人から大笑いされていたが、それを貫いた。

 

吉原治良さんは、現 J-オイルミルズのトップだった。経営的な感覚があり、周りの人サポートをしていたので、具体は残っている。日本各地にそういう活動はあったかもしれないが残ってはいない。

吉原治良さんというビジネスパーソンでもあり、アーティストでもある人がおり、仲間と歩んだ、ということが大きい。

なので、これからはビジネスパーソンとアーティストが一緒にやることがとてもいい。

 

◆学校

あまりいい思い出がない。父の仕事の関係で小学校は3回転校。友達をつくっていかないと生きていけなくなるとわかった。お調子者。変な女の子が来たとなったほうが受け入れられるとおもった。人が笑うと嬉しい。

学校は集中して学ぶ貴重な時間であり、友達作りの場。

中のいい友達はひとりでもたくさんでも。親とも兄弟とも違う第三者となる友達がいて、その子が親身になって聞いてくれるだけでいい。そういう友達が一人いると精神が安定する。

 

しかし、田舎に転校した際、田舎は少しいじわるだった。机を探ったらカブトムシの幼虫がいて学校へ行けなくなった。

その時、隣りに住んでいたおじいちゃんが学校に行けなくなって3日目くらいに遊びに来てくれた。「学校なんか行かなくていいんだよ。俺も全然行かなかったから」と。それでスーッとした。行かないといけないとずっとおもっていたから。

 

◆世界は広い

半径3キロくらいの中に、自分の気持ちと同じ人はいなくても、世界は広い。何人であっても自分と同じような考え方をしている人はいる。海外に出て、はじめてわかった。国籍が違ってもものすごく意見が合う人がいる。実体験。日本だけにこだわらなくていい。

 

◆キミたちへのメッセージ

自分のおもいがこもったものは人へ伝わる。

敷居は低く、間口は広く、志は高く。そういうふうに仕事をしている。

2025年5月5日月曜日

学長くんガチョーン. 湯川れい子さん

■学長くんガチョーン. 湯川れい子さん


このコーナー、レジェンド女性が大勢登場してくれます。先日、湯川さんの米寿祝いをしたばかりです。評論家としても作詞家としてもビッグですが、日本の戦後ポップス史にぜんぶ関わってきた、その内実が重たい。引き続き、よろしく。

 

 

◆最初の作詞

1975年、涙の太陽。エミー・ジャクソン。

ラジオ関東(ラジオ日本)の洋楽のラジオ番組のアシスタントのエミーの歌がうまいというので、英語で歌詞を書くように言われた。R.H.Rivers(レイコ・ホット・リバース)名義で詞を書いた。70万枚近い大ヒット。

日本のクラウンというレコード会社がちょうどできたとき、そこにいた青山ミチがこの曲を日本語で歌いたいというので日本語詞も書いた。

数年後に安西マリアがデビュー曲で歌ってまたヒットした。

 

◆作詞家として

Do you knowをフランツ・フリーデル、尾崎紀世彦、日本語カバーを西城秀樹が歌った。60,70年代、作詞家・作曲家はレコード会社の専属契約だった。本当はフリーで英語で歌う人は存在してはいけなかったが、たまたま外で作ったものが大ヒットして、日本のレコード会社がそれを日本語で発売するときに訳詞(オリジナル詞)を書いてほしいといわれ書くようになったのが始まり。

 

正式に作詞家として作詞してほしいと依頼されたのは1980年、パイオニアのラジカセ「ランナウェイ」のCMソング。それが、ラッツアンドスター(シャネルズ)のデビュー曲となった。100万枚のヒット。

 

六本木心中は1986年ごろ。

あの頃は女性の演歌の人が天城越えや津軽海峡冬景色など素晴らしい歌を歌っていたが、実際の女はそんなに未練がましくない。尽くすだけ尽くして、この男だめとおもったら振り向かない。なぜこんな歌ばかり女の人は歌うんだろう、とおもったときに作家が全部男性だということに気がついた。男性の作家が書いている限り女はこんな歌ばかり歌う。

そんな中アルバムの中の1曲として好きに書いてください、と曲を先に渡され、シンディー・ローパーへインタビューのためにニューヨークに向かう深夜便の中で六本木心中の日本語詞をはめて書いていった。アラスカ周りのフライト、みんなが寝静まっているときに窓を開けたらオーロラが輝いていた。それを見ながら書いたのを覚えている。

 

◆音楽評論家のはじまり

1936年生まれ。高校を卒業するのがやっと。実家は下宿を経営していた。大学へ行くことは考えてなかった。

いかに母を一日でも早く安心させるか。母は口を開けば、早くお嫁に行って、女の幸せは結婚だから、と言われ続けていた。

 

女性の仕事のロールモデルが全くなかった。女優かカフェの女給くらいしかない。初めて女性のモデルが出てきた頃。

そんな時代、自分がなにになれるか分からなかった。新聞の三行広告をみて仕事を探した。そこから独立プロの新人女優にもなった。

 

そんな中1953,4年くらいに米軍の兵隊が日本に運んできたモダンジャズにズボッとハマった。ジャズを夢中になって聴き始めた。

大橋巨泉や無名時代のサクソフォン渡辺貞夫やピアノ穐吉敏子などが集まる小さな店で、米軍の兵隊が持ってくるニューヨークやシカゴから直送されたモダンジャズを高校2,3のとき30円のコーヒー代を払って通い必死になって聴いていた。

その中から大橋巨泉がメキメキ売れ出してきた。その頃はまだ早稲田の学生。最初は銀座のテネシーやアシベなどジャズ喫茶で日本のバンドが歌うところの司会。ジャズ評論家として出てきたのは1953か4年くらい、レコードのライナーノーツ。ビリー・ホリデイのストレンジ・フルーツ。初めて自分のお小遣いをはたいて買った。

それを読んでこういう仕事もあるんだ、とおもった。

 

ジャズの専門誌スイングジャーナル、その中に読者論壇というページがあり800字までで投稿すると掲載される。そこに2回ほど投稿し、掲載された。(1959,60年)

ある日、「オメニカカリタシ オデンワコウ」という電報がスイングジャーナルの編集長から届いた。

電話をして新橋の喫茶店に行った。25歳くらいの若い男の人(岩浪洋三)がいた。若い女性である自分を見てすごくびっくりしていた。あなたの投稿にものすごくファンレターが来ているので、本気で書いてみないか、と言われた。聴いている人さえいないのに、ジャズについて書いている女の人はぜひおもしろいから、と。

書かせてください!と言ったのが今の仕事のはじまり。

 

その後、アート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズが初めて日本に来る(1961年)ことになって、インタビューをいきなりスイングジャーナルの編集長(岩浪洋三)に頼まれた。

 

◆いまの若い世代におもうこと

どんな時代でもやりたいことに夢中になること。

環境問題、世界の平和・経済問題が唯一の壁。その中でも自分がやりたいことを見つけられたらそれでいい。あるはず。自分にだってある。

 

◆息子さんの学校・教育

47歳になる息子がいるが、学校にはとても悩んだ。

まず、区立の小学校に入れようとおもい、見学に行ったら、三年生の教室に生徒の名前が成績に合わせて張り出さだされていた。こんなことを小学三年生でやられたら未来がないとおもい、これはやめようとおもった。

 

先生が質問する前に子どもが質問できるようなところはないかと探した。環境運動で西ドイツへ行った。小さい子に先生がお弁当のゴミは地面に捨てられるか否か全部聞いて捨てさせていた。そういうところを探した。

 

インターナショナルスクールで、息子は小学1年生で留年した。英語が追いつかなかった。中学1年になるときにも留年しそうになった。サッカーが好きでやっていたが、2年も留年すると身長差が大きくなる。こんなに大きくなってみっともなくて留年できないと、14歳で留学することを選んだ。スイスへ。

見学に行き、ドミトリーもよく、英語もフランス語も学べる。

その後寒くてスポーツもできない、と高校2年のときにアメリカへ転校。

 

息子へ唯一、英語で食べていこうと思ったら、対等に喧嘩できるくらいにならないとだめだと伝えた。息子はなんとか自分の好きな仕事ができるようになった。

 

◆学生時代の思い出

良妻賢母を育てるような女子校に行っていた。家庭科で料理を教えるためにアメリカの女の先生が来てくれるのが、唯一生きた英語だった。

フィリピンで戦士した18歳年上の兄が防空壕を作ってくれていた3日間吹いていた口笛の曲がある日、米軍放送FEN(WVTR)から流れてきた。兄に当時そのきれいな歌はなんですか?と聞いたら、僕が作った欲だよといった。なんでその曲が米軍の放送から流れるんだとおもった。中学時代毎日学校から帰ると米軍放送を聴いていた。その曲が聴き取れるようになった。ハリー・ジェイムス オーケストラのスリーピー・ラグーン。それを本気になって調べたのが、スイングジャーナルに投稿する前の、音楽の畑を耕していた時代。徹底的にFENから聴こえてくる曲は全て覚えた。今でも兄の分も生きてきたとおもっている。

 

◆キミたちへのメッセージ

地球環境的に人類史的に大変な時代になるとおもうが、それでも生きていかないといけない。だとしたら、どうやって楽しく、ないものをわけて、ないものをつくって、増やして、わけあって、新しくつくって増やして、量産していけるかというところに道がある。ビジネスでも楽しいことでも。地面にかじりついてでもなんとか餌を作って楽しくおひさまと一緒に空気を美しくして生きていってほしい。絶対絶対絶対夢があったら叶う。頑張らないで頑張って。