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2013年7月18日木曜日

知財ビジョン

■知財ビジョン
 
 政府・知財本部が策定した「知財ビジョン」。過去10年の知財戦略を総括し、今後10年の戦略を立てるものです。
 http://www.kantei.go.jp/jp/singi/titeki2/kettei/vision2013.pdf
 とりまとめに当たり、WGの共同座長として、担当大臣・副大臣・政務官らに意見具申する機会があり、そこで申し上げたことを記しておきます。

 
 まず冒頭「はじめに」、今後十年の知財政策を語るメッセージとして、日本にとっての知財の位置づけと、その政策の位置づけを明記することを心がけました。「知的財産をその強みとして世界のリーダーシップを取っていくべき」というメッセージを出しました。
 資源も安価な労働力もない日本が、グローバルで連結した世界で自ら望む位置を占めるには、知財の生産と活用以外に道はないということ。知財の政策が全政策の中で最重要であるということをにじませたいと考えたのです。
 個人的には、知財戦略は国防、教育と並ぶ国政の柱だと思いますし、産業政策の面でも、農政、あるいは工業・商業の政策よりも重要になっています。TPP交渉でも、未来を担う分野として重視する必要があります。そうした視点を示したいと思いました。

 今回のビジョンには二つの背景があります。
1 ここ1-2年のメディア環境の変化。
 多様な表示デバイス、クラウドネットワーク、ソーシャルサービスといったメディアの刷新が起きているということです。

2 そして、危機意識。
 グローバル競争で他国に後れを取っている。競争力を活かせていない、という認識です。

 その中で、コンテンツ政策に2本柱を据えました。

「デジタル・ネットワーク化」と「ソフトパワー」。国内の基盤整備と海外展開です。
 その上で、3点について、大きな方向付けを行いました。 


1 政策転換
 第3の1:「生態系変化」に明記したとおり、ユーザが作成するコンテンツ、公共・教育、ビッグデータに力を入れる。
 これをトップ項目に据えたということです。
 過去10年、コンテンツ政策は、エンタテイメントのビジネスを中心に考えられてきましたが、これからの10年は、国民全体の問題として捉えるというスタンスが明確になっているということ。プロが作る作品だけでなく、みんなが生むコンテンツが主役になっていく。
 日本の強みは、みんなの力。子どもも大人も映像や音楽を産み出す創造力。これを政策で後押ししたい。
 今回、教育情報化にも踏み込んで対策を記述しています。私はデジタル教科書教材協議会の事務局も担当していますが、関係者からはこの記述が非常に注目されています。政府の本気度が問われています。
 これは同時に、コンテンツ産業の拡大から、コンテンツ自体の創造・利用へという広がりを見せているということでもあります。コンテンツ産業の拡大から、全産業への波及が重要という視線です。コンテンツ産業12兆円、IT産業85兆円から、GDP470兆円に視野を広げる必要があります。
 

2 プライオリティの向上
 第3の2:資源配分の重点化と政策資源の充実。
 コンテンツ政策、知財戦略が日本の政策に占める位置づけを高めることが重要です。農業社会、工業社会から情報社会に移行する、というのは小学生でも話すようなことですが、では 政策の優先順位はというと、その逆だったりします。日本は知恵で喰うしかなく、その政策の重要性はしかと位置付けたいと考えました。
 大臣がおっしゃっている「総理によるコンテンツ立国宣言」をぜひ実現してもらいたい。フランスも韓国も、コンテンツ政策を打ち出す時には大統領が自ら発します。日本もぜひそうありたい。
 

3 推進体制の整備
 政府の一体的な取組、総合的な推進体制。
 知財本部の議論も8つの省庁が一つの机で前向きに施策を出し合い、連携が進むようになりました。これが最大の成果と考えます。また、「クールジャパン推進会議」も設置され、私はその下に置かれた「ポップカルチャー分科会」の議長も担当したのですが、それらとの政策調整も重要です。
 そして、一層の連携が必要となっています。ビッグデータなどはIT戦略本部でも議論されていますが、ハードとソフトを一体にして考えるのは当然。90sウィンテルの時代には、ハードとソフトが分離されていましたが、AppleはiPhoneとiTunesを一体にしており、GoogleもAndroidでハード戦略を進め、アマゾンもkindleで攻めています。日本の戦略もITと知財を一体で考える必要があります。
 個人的な意見として、私はコンテンツやITの政策を結合して「文化省」を作るのがよいと思っています。それは荒唐無稽な意見かも知れませんが、韓国は新政権でIT政策や科学技術を統括する「未来創造科学省」を置くことにしました。国民を何で食べさせるかを端的に示しています。日本にもそのような腹づもりが求められます。

2013年7月15日月曜日

「パブリック」--新しいP2P

■「パブリック」--新しいP2P

 ジェフ・ジャービス著「パブリック」。
  ずっと積んであった331ページの大著ですが、めくり始めたら一気に最後まで行きました。
 印刷機以来のメディア進化によって生まれたパブリックとプライベートの概念がネットで破壊され再構築される、という分析です。
 ぼくは筆者の位置に近い。PrivateからPublicへ。「新しいP to P」の時代だと思います。その視点がオーバーラップした部分を抜き出し、紡ぎつつ、頭を整理します。

●プライバシーとパブリック
 本書は、プライバシー過保護への警鐘と、個人によるパブリック・コントロールの重要性を説きます。
 情報をいかに秘匿するかより、パブリックにしないデメリットとコストを考える場面が来たということです。

 まずは「プライバシー擁護派は、僕に慎重になるべきだと言う。何もかもオープンにすべきでない、と。」でも、「僕はパブリックな存在だ。僕の人生は、オープンな物語なのだ。」なのに、「口を開けばプライバシーが議論され、未だかつてないほど僕らのプライバシーは保護されているように思える--おそらく過保護なほどに。」そこで「プライバシーについての感情的な表現や、根拠のない恐れや、漠然とした言い回しを避け、プライバシーについて語るときにそれがどういう意味なのかを検証してみたい。」と説きます。そして、「プライバシーに固執しすぎればこのリンクの時代にお互いにつながり合う機会を失う」と指摘します。ボストン大学のN・ヴェンカトラマン教授「かつて企業とは、顧客や商品と呼ばれる資産をもつ事業部の階層だった。今ではそれが、つながりと能力という資産をもつユニットのネットワークへと変化している。」そう、それは個人と国家の関係だけでなく、企業を含む全ての社会構成員の問題です。

 ただ、それはコミュニティにより相対的なものでもあります。
「たとえば、グーグルのストリートビューに近所の通りを移されるのを嫌がるドイツ人もいれば、みんなに見てもらおうとグーグルの車に写真を撮ってほしがるアメリカ人がいるのはなぜだろう?」「アメリカでは個人の財務情報は、おそらく医療情報の次に隠したいことだ。ノルウェーとフィンランドでは、国民の収入と税額が公開される。」「アメリカでは、被疑者の身元を公開し、ウェブに写真を載せ、プレスのカメラの前で連行する。ドイツでは、有罪になった犯罪者の写真にも、目の部分にグーグルマンが使ったようなモザイクがかけられる。」「2010年に、ドイツの連邦食糧・農業・消費者保護大臣であるイルゼ・アイグナーは、位置特定テクノロジーに顔認識機能を組み入れることを今後いっさい「タブー」とした。」「2011年の日本の地震と津波といった災害で、被害者の行方をたどったりできるのでは?それもトレードオフだ。」

 日本でようやく成立したマイナンバー法も、ドイツ型、北欧型、アメリカ型と制度を比べればかなり違う。それはプライベートとパブリックの認識が各地でさまざまだからです。「社会はパブリックになればなるほど安全になる。こう言うと、多くの人が不安がる。テクノロジーが政府を助けて、弾圧的な政権でさえも、僕らを監視し、僕らの行動を利用し、僕らの意に反してパブリックになることを強制するような恐怖を呼び起こすからだ。」ただし、「同時多発テロの日、僕はワールドトレードセンターにいた。・・・監視に対する僕の許容範囲は広い。今僕らは社会として許容できる共通の範囲を探っているところだ。」ぼくも9.11にはマンハッタンにいました。その筆者との共通体験がパブリックに対する認識を近づけているのかもしれません。

●パブリックの変化とテクノロジー
 「(17世紀までは)公的な地位にある男性だけが、パブリック=公人だった。・・アメリカで「プライベートスクール」と呼ばれる特権階級のための学校が、イギリスでは「パブリックスクール」と呼ばれるのはそのためだ。」「軍隊で「一兵卒、つまり階級を持たない兵士」を「プライベート」と呼ぶ理由もそこにある。」ローレンス・M・フリードマン「中世の人々には、プライバシーの概念がなかった。普通の人にはプライベートな空間がなかった。家は小さく、混み合っていた。プライバシーは美徳と考えられてはいなかった。」かつて松田道雄さんが、日本の家屋構造が非プライバシーの関係を育んだことを記していましたが、中世欧州もそうだったというわけです。

 そして、メディア技術がパブリックとプライベートを生んだといいます。
「テクノロジーは、歴史上のプライバシー騒動のきっかけをひとつに結びつける糸だ。」15世紀のグーテンベルクの印刷機、1870年代のマイク、1880年代の電話、1890年代の録音機とカメラがプライバシーを生んだ。「プライバシーが近代初頭のヨーロッパに生まれつつあったちょうどその時、パブリックネスもその姿をおのずと現し始めていた。・・印刷機はもちろん、舞台、芸術、楽譜、印刷された説教、地図といった新たな道具が、人々を家族や社会階層や職業の別なく、興味やアイデアの周辺に集わせた。」

 コンピュータとインターネットが再びこの状況を刷新します。パブリックを変容させます。パブリックがプライベートの向こう側にある他所ではなく、私たち個人の内側にあるものとなります。自らのパブリックに自ら参加します。こうしてパブリックは個人化し、拡張します。
「人々が新しいパブリックをつくる時、その概念もまた定義し直される。今では王は国家ではない。ニューヨークタイムズは世論ではない。政党は政治の中心的存在ではない。ハリウッドが文化ではない。」「昔も今も、新たなツールが人々を行動に駆り立て、パブリックな場での創造を促し、そこにパブリックな人々が生まれる。」「印刷機やカメラがパブリックとプライベートを生んだ。それをネット(グーグル、ブロガー、ツイッター、ユーチューブ、フリッカーといった奇妙な名前の僕らのツール)が破壊し、再構築する。」

 これに対し、既存メディアがパブリックの会話を吸い取れていないことも指摘します。
「(19世紀の初頭)ジャーナリストは自分たちをパブリックの代表、市民と国家の間の架け橋だと勝手に思い込むようになった。」コロンビア大学のジェイムズ・ケアリー教授「報道機関はパブリックに情報を与えるものではない。パブリックこそ報道機関に情報を与えるべきだ。ジャーナリズムの真の対象は、パブリックの内部で交わされる会話そのものなのだ。/メディアはパブリックの使い方を誤った/ジャーナリストは、自分たちをパブリックの上位におき、・・自分たちが客観的で、中立的で純粋だと思い込むようになった。」
 ただし、エリザベス・アイゼンステイン「グーテンベルク以降まるまる1世紀が経ってはじめて、新しい世界像の骨格が見えてきた」とも説きます。「インターネットがもたらした変化はすでに巨大なものに映るが、僕らはまだその革命の初期にいる。まだ何も見ていないのだ。」そのとおりです。

●パブリック・コントロール
 改めて、プライバシーとパブリックの関係が問われます。
「(プライバシーとパブリックは)相反するものではないからだ。プライバシーとパブリックは相互に作用するものだ。プライバシーを「パブリックでないこと」とは定義できないのだ。」アラン・F・ウェスティン「プライバシーとは個人、グループ、組織がいつ、どのように、どこまで、自分たちに関する情報を他者に伝えるかを決める権利である。」ダナ・ボイド「プライバシーとは、情報へのアクセスをコントロールすることだけではなく、それがどのように使われ、どう解釈されるかをコントロールすることです。」エリック・シュミット「もし誰にも知られたくないと思うなら、最初からしなければいい。」プライバシーとは秘匿するだけのものではなく、利用し管理する権利であり、そのプライベートをパブリックにするかどうかのコントロールは可能だというのです。

 プライバシーを確保するコストが増大しているという事情もあります。サム・レッシン「プライバシーが欲しければ、現金、時間、社会資本、その他もろもろを一緒に払わなくちゃいけなくなった。」「プライバシー設定を管理するための努力と煩わしさというコスト。あえてパブリックにもソーシャルにもならないことで失われるチャンス。」善し悪し、というより、損得、が変化を加速している面があります。これに対し筆者は、「パブリックであることの倫理とは・・透明であること、オープンであること、コラボレーションを促すこと、リスペクトにつながること、価値を与えること」といった規範を持ち出しています。
 ピュー・リサーチ・センターの調査によれば、「自分についての情報がどのくらいネットで公開されているかを心配するのは、ユーザーの33%にすぎない。この割合は低下傾向にある。」のだそうです。個人はよりパブリックであることを求めるのかもしれません。(なお、同じ調査で「ネットユーザの42%がそれ以外の人よりもよく公園に行く」という結果がありました。ネット民は引きこもりではなくアクティブで、リアル面でもパブリックなのかも。)

 ここで筆者は制度を要求します。「政府は公開をデフォルトとし、必要な時にだけ秘匿すべきだ。」「情報を秘匿したい場合は僕らの許可を求めなければいけないような法律だ。」ぼくも携わっている「オープンデータ」は、それに向けた運動です。政府・自治体の中にも、その効用と必要性を認識しているかたがたはいます。官民での取組が大事です。「ベス・ノヴェックは、「コラボレーション型政府」を望んでいる。「オープンガバメント」という言葉はあまり好きじゃない。」そう、オープンはルールであり、決めればできる。官の対応にすぎない。これが市民と混じり合ってコラボレーション型に進化するには努力が要ります。

 最後に小林弘人さんの解説があります。本文の前に、こちらを読むことを薦めます。そこに、こう記されています。
「チュニジアのジャスミン革命やアラブの春のような独裁や強権による専制に対する反政府活動にソーシャルメディアが用いられたことは知られるところだが、日本では国難とも呼ぶべき未曾有の被災において、一般の人々がモバイルやソーシャルメディアを駆使して災害へ対応し、あるいは被災者やコミュニティのために協働した。パブリックネスの扉が自然と開かれたのだ。」
 パブリックに対する欧米のアプローチが示される本書を読み解く日本の視座を与えてくれています。
 

2013年7月12日金曜日

いま100億円あったらどう使う?

■いま100億円あったらどう使う?かつて麻生政権のころ、「アニメの殿堂」予算が批判を受けました。
正式名称:国立メディア芸術総合センター。
んで、民主党政権になって、ポシャりました。
ぼくは、ポップカルチャーに100億円を投ずること自体は悪くないと思うんです。
当時の道路予算の1/1000。1日工事休めばひり出せるカネですわ。
で、一休みして、自民党政権となり、改めてクールジャパン政策とかポップカルチャー政策に光が当たっています。
成長戦略とかで。
歓迎する声もある一方、批判もあります。
それは、おカネを使うかどうか以前に、その政策の具体像がまだ明確じゃないからですね。
ポップカルチャー政策と言っても、殿堂作り、制作現場の労働環境改善、業界への資金提供、特別減税、著作権制度改正、海賊版対策、教育の拡充、イベント支援、技術開発、TPP交渉・・・まあいろいろあるわけです。
そんな中、やはりハコ作り、拠点作りをという意見があるんですが、ぼくはあえて「ハコからヒトへ」を主張します。

おカネは使えばいいと思います。
日本の文化予算は欧州や韓国に比べ、大きく見劣りします。10倍増したっておかしくない。
問題は、使い方。
「アニメの殿堂」はハコでした。予算案117億円は用地取得費用と建設費でした。メディア芸術ではなく土建に回るカネ。
必要なのは、そこじゃない。
100億円でセンターを一つ建てても、せいぜい地方都市の美術館程度の賑わいだったでしょう。(地方都市の良質の美術館は、そこそこ家族連れで賑わっています。)
そうではなく、4年前、100億円を1000万円×1000件に分けて、クリエイターやプロモーターやサイト主催者やワークショップ提供者に配っていたら、どんなに賑やかになっていたことでしょう。

ハコや拠点はいっぱいあります。
各地の美術館、資料館、大学、廃校の小中学校、ネット上のアーカイブ。
イベントもいっぱいあります。
コミケ、コスプレサミット、ニコニコ超会議、沖縄国際映画祭、JAPAN EXPO。
みんなの力を活かせばいいんです。
集中より分散。

1988年、竹下内閣のころ、「ふるさと創生事業」というのがありました。
全国の市町村に1億円ずつバラまいて、好きなことをさせました。
当時3000以上の自治体がありましたから、3千億円。
宝くじでスッた自治体もあれば、温泉を掘り当てられなかったところもあれば、金塊を買って観光資源にしたところもあれば、高金利時代、全額預金して着実にもうけた自治体もあります。
大分はパソコン通信ネットワークを建設するという先見の明を示しました。
賛否ある大盤振る舞いでしたが、全国で知恵がしぼられ、みんなが政策に参加して、賑やかなことになりました。
どうしていいかわからんときは、みんなの力を頼りに、エイヤっとおカネつけてもいいんじゃないですかね。

さて、そこで、もしも、改めて100億円がポップカルチャー政策に用意されたら、どう使います?
100億円でハコ建てるか、10億円を10個に分けるか、100万円を1万件に分けるか。
それとも、やはりそんなカネは不適当で、地方道路の拡張工事に回しますかね。

2013年7月11日木曜日

IT「を」からIT「で」への政策転換

■IT「を」からIT「で」への政策転換

 ブロ-ドバンドアソシエーション主催のシンポ「どうなる? 新政権のICT政策」にて、総務省柴山昌彦副大臣、谷脇康彦官房審議官、イブシ・マーケティング研究所野原佐和子社長とともに講演をしてきました。ぼくの大要は以下のとおりです。
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 デバイス、ネットワーク、サービスというメディアの3構成要員が、マルチスクリーン、クラウドネットワーク、ソーシャルサービスへと移行する状況で、IT政策も刷新されなければなりません。
 特に日本は、ユーザのリテラシーに着目して政策を考えるべきです。世界経済フォーラム(WEF)によれば、消費者洗練度(新たな商品開発のニーズ等を引き出し得るユーザーの能力)で日本は1位。これが日本の強みです。
 シスコの調べによれば、日本のモバイルユーザが発信する1人当たり情報量は世界平均の5倍でダントツ世界一。情報を生産し、発信する国なのです。それはもう10年前にハワード・ラインゴールド「スマートモブス」が渋谷の親指族を世界最先端と驚きをみせ、最近でもバルス!のツイート世界記録で世間を驚かせたことでも示されています。
 これに対し、課題は3つあります。1) ITの公共利用が低いこと、2) 企業経営の認識が低いこと、3) 社会の認識も高くないこと。
 IT利用に関し、シンガポールと日本とを比較すると、電子商取引や交通・物流の分野ではひけを取らないものの、教育、行政サービス、企業経営の分野では大きな差がみられます。昨年度の情報通信白書でも、公的機関とのネットやり取りの点で日本は調査18か国中最下位でした。
 一橋大学深尾教授によれば、IT投資の対GDP比率は米英韓が5%で、2003年から増加しているのに対し、日本は3%で、しかも2001年から減少しているといいます。経営者がITの意味をわかってなんです。
 しかも、マッキンゼーによれば、この10年間に蓄積された情報量は、日本は北米の1/9に過ぎません。一人当たりの発信量が多くても、社会として貯めていない。だからビッグデータも活かせない。若いユーザは進んでいるのに、社会全体の認識に問題がある、ということです。

 政策の切り替えが必要です。これまでは提供政策が中心でした。谷脇さんやぼくが役所に入った30年前は、通信自由化まっただ中、ニューメディアブームでした。毎日、通信業に関するニュースが紙面を飾っていました。以来、IT政策は通信ネットワーク整備、地デジ整備、競争環境整備が中心課題でした。そして、それはほぼ達成されました。
 このところ新聞を読んでも、そういうニュースは目立ちません。ある一週間のIT関連の記事を取り出してみると、教育情報化、コンテンツ転送の著作権問題、サイネージの災害時の運用・利用法、ネット選挙解禁、医薬品ネット販売の行方、医療機器ソフトの解禁、ネット通販の拡大、といったネタばかり。
 ITの提供問題ではなく、すべてITの利用問題です。いかに「整備」するかから、「使える」ようにするか。重点はこちらにシフトしました。役所や病院や学校で新しいメディアが使えるようにする。全ての子どもがデジタル環境で学べるようにする。ネットやケータイで安心して商品やサービスを買えるようにする。つまり、提供政策から利用政策への転換。
 それは、IT「を」どうするか、ではなく、IT「で」社会や経済をどうするか、の視座。産業政策でみれば、IT産業85兆円をどうするか、よりも、それを使って、GDP 470兆円をどう拡大するか、という問題となります。

 これに対し、安倍政権が発するメッセージは、というと、割にいいんです、これが。
 3月、 IT戦略本部で安倍総理が発言した「3つの課題」。1) ITの利活用による新しい成功モデル。2) IT社会の実現に当たっての規制改革、ルールづくり。3) 公共データの民間開放。ITの利用促進に向け、環境を整えようという姿勢が明確です。
 同じく山本IT担当大臣が産業競争力会議に示した資料では、1) IT利活用の裾野を拡大し、世界最高水準のIT利活用社会を。2) 規制・制度改革:オープンデータ、3)人材育成・教育:1人1台の情報端末配備、とあります。オープンデータや教育情報化など、私が関わる政策を挙げて、利用促進を前面に出します。
 これらを受け、総務省が進めている政策メニューも、1) オープンデータ、2) 利活用:規制・制度改革、3) ICTを利用した社会インフラの管理、4) スマートタウンという項目が並んでいます。かつてのNTT再々編、競争促進、通信産業拡大という路線とはさまがわりです。
 ぼくが担当している内閣官房・知財本部の政策メニューも、「デジタル・ネットワーク社会に対応した環境整備」として、1) クラウドサービスなど新産業形成に向けた制度整備、2) ビッグデータビジネスの振興、3) 文化資産のアーカイブ化、4) 教育情報化の推進、という具合に、ネットを利用した知財戦略が中心となっています。全体の方向は合っています。

 問題は、それらはまだ実現していないということです。政策は実行されて初めて政策になるのであって、発動されなければアイディアにすぎません。実行力に欠けた民主党政権からこの政権に変わって期待するのは、断行力です。
 例えば、上記メニューにある政策にしても、ぼくはデジタル教科書を実現する運動を続けていますが、政府の動きは未だ力強いとは言えません。これに対し、大阪市、東京都荒川区、佐賀県武雄市のように、政府計画を5年以上前倒しで進めようとする自治体が登場するなど、事態はローカル、現場主導で動き出しています。政府の本気度が問われます。
 オープンデータもそうです。内閣官房、総務省、経産、国交、そして地方自治体などみな前のめりになり始めたことは評価できますが、公共データをフルオープンにしたり、それを民間ビジネスに結びつけたりするなどの成果が渇望されている段階です。
 利用政策で言えば、ネット選挙の円滑実施、医薬品ネット販売の決着、医療情報化、マイナンバーの導入、炎上問題への対応、ソーシャルゲームの健全化・・・メニューはいくらでもあります。いま一度、IT政策のプライオリティーを上げること、特にIT利用政策の重要性を認識することが大事です。

2013年7月8日月曜日

わかりあえないことから

■わかりあえないことから


 平田オリザさんの著書。批判的に読もうと構えたんですが、意外にもwいいことが書いてある。メモします。

○子どものコミュニケーション能力の低下が叫ばれているが、社会変化により喋る必要がないから子どもは「単語で喋る」ようになった。
 →周囲に他者がおらず分かり合う環境で育つ中で、伝える切実な欲求・能力が育っていないのは当然でしょう。

○リズム感、音感、ファッションセンスなどは子どもの方が高く、若者たちは表現力もコミュ力も低下していない。
 →ぼくはむしろ高まっていると思います。ただ、従来の企業組織で円滑に生きる術が欠けているのでは。

○「つい十数年前までは、「無口な職人」とはプラスのイメージ / いつの間にか無口では就職できない世知辛い世の中に」
 →企業や社会が求めるコミュ力を規定・デザインし直すべきです。

○「世間でコミュニケーション能力と呼ばれるものの大半は、スキルやマナーの問題 / それは教育可能な事柄」
 →論理的に文章を書いたり、表情豊かに話したりする「表現力」とコミュ力は別であり、コミュ力は技法化できるということですね。

○「きちんと自己紹介ができる。必要に応じて大きな声が出せる。・・・「その程度のこと」でいい。」
 →そして、「その程度のこと」が実はとても大切になっている、ということでしょう。
  そういえば、むかしビートたけしさんが「以前はちゃんとあいさつする子が”いい子“だったんだが、近頃は勉強できる子を”いい子”って呼ぶんだよな」と言うのを聞いてヒザを打ったことがあります。あいさつする子を「いい子」ってホメよう。

○「求められるコミュニケーション能力は、せいぜい「慣れ」のレベルであって、これもまた人格などの問題ではない。」
 →そう捉えれば、気も楽になります。

○学校教育は短期的な記憶のみを問うてきたが、試験で問われているのは「学力」ではなく「従順さ」と「根性」だった。
 →富国強兵を通してそうした人材が求められていたということでしょう。

○演劇に対する「芝居がかった」胡散臭い感覚は、強弱アクセントによって感情を表現する欧米の演技法を輸入したせい。
 →なるほど、語順が自由で単語の繰り返しもいとわないという日本語の特徴を殺してきたということですね。

○演劇を言語教育に導入することへの疑問は、演劇のことばが臭くわざとらしいという認識から来ている。
 →だとすると、教育より先に演劇側が変わってメソッドを確立しなければ。

○「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」を聞くだけで夕暮れの斑鳩の風景を思い浮かべるハイコンテクスト性が日本をアジアで早く近代国へと導いた。
 →説明不要でコトが運ぶ効率性ですね。加えて、映像把握力も一要素だと思うんですが、ぼくはまだうまく説明できません。

○日本の国語教育は「きちんと論理的に喋れ」と冗長率を低くする方向だけを教えてきたが、必要な言語能力は冗長率を「操作する」力。
 →たどたどしく、ムダな感嘆句などを挟む方が「伝わる」ことがあります。それを完璧に操作できれば名人落語家。

○平田さんが鷲田前総長から阪大に誘われた時、業績審査で最後に聞かれたことは「関西弁は大丈夫ですか」「タイガースのファンになれますか」の2問。
 →ぼくが鷲田先生に初めて会ったとき聞かれたのは「小学校どこ?」。京都人やなぁ思いました。

○エレベータで見知らぬ人と挨拶するアメリカ人はコミュ力が高いのではなく、自分が相手に悪意を持っていないことを示さざるを得ない社会のせい。
 →そう思います。それをせずに済んできた日本は幸せだった。

○イヌイットは雪を描写する言葉を数十も持つ一方、日本語は色彩に関する表現では世界有数の語彙を有する。
 →日本は「色の国」なのです。www.colordic.org/w

○「コミュニケーション教育は、人格教育ではない。」
 →つまりスキルであると。であればメソドロジーがある。それを作り上げることが第一。

○「せっかく作られた総合的な学習の時間を減らすという愚挙が行われた。」
→メソドロジーが確立されていないのに、教育をあきらめるのは、まさに愚挙。それはぼくも含め、メソドロジーを作る側にも責任があります。

2013年7月4日木曜日

沖縄国際映画祭 2013

■沖縄国際映画祭 2013
ここのレッドカーペットは、世界一長いんだって。初日のレッドカーペットには芸人、監督など550人が歩き、5.3万人の客が押し寄せたといいます。
8日間に渡るとても長いイベント。スポンサー企業は57社。期間中に9カ国からの74作品が上映され、コンペには20作が参加。144人のよしもと芸人が出演し、観客動員は過去最大の42万人!

毎年来てるんですが、これまで参加した時のメモはコチラ。
http://ichiyanakamura.blogspot.jp/2010/04/blog-post.html
http://ichiyanakamura.blogspot.jp/2011/05/3_19.html
http://ichiyanakamura.blogspot.jp/2011/05/blog-post_26.html

ボローニャから戻ったその足で、今年も顔を出してきました。


実行委員長である吉本興業の大崎社長は言います。「毎日歌って踊ることを沖縄の産業にしたい」。そう、かなり沖縄色が強い祭になっています。会場の宜野湾市だけでなく、県内の41市町村を巻き込んで、沖縄の魅力を世界に発信しています。当初は本土からやってきた催しという見方もあったようですが、5回を経て、地元の信任を得た模様。今年から映画の鑑賞を全て無料にしました。賑わいも当然ですね。
 

ただ映画を上映するだけのイベントじゃないんですよね。マーケット機能や展示会場もあり、「ラフピータウン」には50の企業がブースを出しています。ブースも年々、本格的になってきていて、業界人だけでなく、親子連れで賑わうようになっています。
今年から人材発掘のプロジェクトとして「クリエイターズファクトリー」を開始しました。監督、カメラ、俳優などの新星を見出そうとするもの。最優秀賞に輝いた「おだやかな日常」の杉野希妃プロデューサ+女優は、その次回作の制作を吉本興業が全面サポートすることとしています。

世界中のコンテンツを日本に集め、発信する。基地問題で揺れる地域の活性化を図る。マーケット機能を創り出したり、人材を育成したりする。
これって、国の仕事じゃないですか?
「スポンサーはついてくれてるけど、正直、ン億円の赤字でね。それでも、社員教育やと思たら安いもんなのかもしれん。みんなで作り上げてる催しなんで。」(大崎社長)。 いやいやいや、社長、十分高いですよ。頭さがります。
浜辺に打ち立てた26.65m×14.76m、世界最大のスクリーンは、スイスから船で運んで来たんだそうです。そりゃコストかかりますわな。


ビジネスも作っています。サイバーエージェントのオークションアプリ「パシャオク」を使って、レッドカーペットをノンスタイルの2人と歩く権利を売り出したんですと。石田さんには10万円、井上さんには12万円がついたんですと。井上の方が高かったことに若干フにオチない点はあるものの、いい値がついて、ファンの女性が堂々と世界一長いレッドカーペットを歩いた。それを吉本興業は子どもダンス活動に充てるよう宜野湾市に寄付したんですと。
ええ話や。でも赤字になりますわな。デカいもん船で運ぶし、上映タダにするし、寄付するし。

コンペティション部門の審査委員長、バットマン・フォーエバーのジョエル・シュマッカー監督は、「こんな映画祭は他にない」と言います。映画祭の多くは、賞を与えておしまいの、芸能界の作り物っぽいものだが、沖縄は違うというのです。芸人も監督も業界も観客も、みんなで学芸会のように作り上げているお祭りです。映画もあれば、音楽も演劇も、ニコ動もパチンコもある。

8日間だけの催しでもありません。同時に沖縄小学生映画祭というのが開かれ、7本の作品が上映されていたのですが、各地の学校を はんにゃやスリムクラブらが訪問してサポートして作ったものだといいます。郷土の魅力CMを作ろうという「JIMOT CMコンペ」というのも開催されました。これは、46都道府県+沖縄県41市町村から募集した1000を超えるアイディアの中から、87のプランを選定し、芸人たちとともに制作をするという企画。地域に密着して、時間と情熱をかけて、作り込んでいるわけです。


そんな中、驚いたのは「にーびち映画祭」。ぼくは知らなかったのですが、沖縄の結婚式では、新郎新婦を祝う余興ビデオはハンパない作り込みをされるらしく、一つの文化になっているとか。それを讃えちゃおう。にーびちというのは結婚のことだそうで。出品された結婚式の余興ビデオから厳選10作品が上映されたんです。
新郎新婦の同級生なんかが作るしろうと映像ですからね。まあね。第一、知らない人の結婚式のビデオですしね。行きがかり上みるだけ観てみるか。
と思いきや、面白かったんですコレが。ハンパなくて。ほんの一時、酔っぱらった列席者にみせる余興に、こんなに愛情を注いで作るのか、オマエたちは、と。結ばれるカップルを祝うために、シナリオや大道具小道具や音楽やあれやこれやを用意して、何日も何日もかけて作ったのかオマエらは、と。
映像っつうのは、解像度が低くても、音が割れていても、まっすぐに愛があふれ出ていると、突き動かされるものなんだな。と、ウルっと来てしまいました。

発見があるなぁ。
また来年。

 (追記:楽屋でもらったピース印のおにぎりがすこぶるおいしかった。)

2013年7月1日月曜日

ボローニャ雑記帳2013

■ボローニャ雑記帳2013

 ボローニャからベネチアに向かう電車です。
 出発がうんと遅れましたが、冷たくそぼ降る雨の中、プラットフォームで待つ人々は悠然として、ま、あたりまえ。イタリア。だもん。ぼくも、あたりまえ体操をして待ちました。

 ボローニャの仕事は、Children's Book Fair。児童書展です。
 実際は、世界絵本博とでも言ったほうが正確。各国の絵本が集結しています。
 まず、併催されたTOC:Tools of Change for Publishingに顔を出しました。
 デジタル時代の子どもと出版について、出版関係者が熱く議論しています。
 出版社がどう技術と共存していくのか、どのようにコミュニティを築いていくのか。
悩んでおります。
 思い出しました。ぼくは95年、パリでスパイをしていたころ、東京からの指令に応じ、イタリア・トリノで開催された出版業界の世界大会に潜入したところ、日本代表が欠席っつうことで、各国の大立て者の前でデジタルとコンテンツについて講演させられたのでした。大勢の人前で英語で話す初めての機会でした。中身は全く覚えていません。立食パーティーのおつまみがやたら豪勢だったことはハッキリ覚えています。

 昔話はよろしい。絵本博のこと。
 本業、デジタルえほん社の戦略を練るためにも、こちとら真剣です。
 昨秋にフランクフルトのブックフェアを訪れたときも感じましたが、欧州出版界の集まりは、客層がよろしくて、実に気持ちがいい。上品で美しく。でも、デジタル技術によってグーテンベルク以来550年ぶりに刷新されようとする状況に対し、苦悩は深い。その表情を凝視して回るだけでも楽しい。

 以下、写真メモ。

しつらえ、展示法が優雅なんだよね。









こういう空間を作りたいんですよ。
 








 
世界中から。これはアフリカのえほん。 








 
デジタルの展示はまだ少ないんだけど、アナログと美しく融合している企業もあり。











デジタルコーナーってのもあります。
ただ、これは過渡期の姿。
すぐ消えるでしょう。
どのブースもデジアナ融合しますから。 





 
これ、ジェスチャーで操作するデジタルえほん。
ぼくらもこういうの作ってますが、これは、なかなか。






日本からは、講談社。
 












デジタルの出版を引き受けますよ、という台湾のコーナー。
いえ、ぼくらがやります。BF9







デジタルの顔をつくるアプリ。
ぼくらの「tap*rap つくるへんしん」に似てる。
けど負けないよ。







欧州風の原画4点。
キレイだから見て。

 
















 










 











ついでに、幼児教育のメッカ、レッジョエミリアなど、いくつかの町を訪れました。 
 











 




パルマで、パルマハムとパルメザンチーズ。







ボローニャで、ボロネーゼ。
 











 
 





すみません、ほかに仕事もしてます。
これはボローニャのデジタルサイネージ。
町のエコ情報などを掲示。





ボローニャの人型サイネージ。
コイツが実働してるのを、初めて見ました。
 

京都の祇園に、めくるめく甘さの「ボロニヤ」というパン屋があります。
一時、新橋にも出店していました。
これまで、たくさん食べました。
ボローニャを訪れるに当たり、その本店があるかとチェックしてみたところ、京都のボロニヤはボローニャと関係はなく、ネーミングの元は、「ボロもうけしてニヤっと笑う」という意味だと知りました。
なぜか阿藤海さんの顔が思い浮かび、なんだかなぁ、と思いました。