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2025年5月12日月曜日

学長くんガチョーン. 山口裕美さん

■学長くんガチョーン. 山口裕美さん


現代アートのチアリーダー。裕美さんがCAからアートの道に転身したころぼくはまだ役人で、アート界の大物から、名もなき卵まで巻き込む姉御の力量に憧れていました。iUキャンパスに置いているブタのウンコでできたブタと、羊のウンコでできた羊も裕美さんが教えてくれたアーティストのもの。一緒にアートの柱を立てていきたい。

 

 

◆いま力を入れていること

Rakuten NFTと一緒にやっている「APJ NFTアート」。キュレーターが入っている。自身もキュレーションしている。画像をNFJ化しているわけではない。プロジェクトベース。アーティストの今までのコンセプトを重視している。

 

例えば中村ケンゴさんの収蔵庫がいっぱいになってしまっている、という美術館を少し揶揄するような作品を100分割して100人に販売した。それを買った人たちを1年後に再会させる前提で売った。今年(2023年)の10月に写真美術館での集まりを準備中。

買ってくれた人のコミュニティを作る。メタバースはリアルと行ったり来たりがおもしろいようにおもう。買ってくれた人同士、作家本人にも会って、感じてほしい。

 

◆一歩先

So-netの会員向けコンテンツとして「Tokyo Trash」という番組をやっていた。

そのころ、東京の自宅から飛ばして札幌の地域FMの番組をやっていた。VAIOが100万円の時代。

 

◆アート思考

分析型の経営・データ型・コンサルなどが行き詰まったのだとおもう。コンサルはすばらしいことだとおもうが、数字になると、偶然も起こることもあるのに同じようなデータになるのかそもそも疑問だった。

 

アーティストはハプニングも取り込む。ピンチもチャンスにできる。

例えば絵を描いているうちに、自分の思ったものと違う色になってしまった場合、考えて、これはよかったのではないかとおもうように変えていく。焼き物の場合もやっているうちに違っていても、なにかをつけてみようと変化をしていく。それを受け入れる体制をアーティストは持っている。失敗したとはおもっていない。これでいいや、と次を考える。そこがビジネスパーソンの気持ちをうっているのかもしれない。

 

◆これからの時代に大事なこと

具体の中心人物だった吉原治良さんは、人のやれないことをやれ、とおっしゃった。

 

具体の仲間はひとりひとり悩んで考えた。白髪一雄さんは天井からロープを吊るして足を使って絵の具で絵を描いた。村上三郎さんは何枚もの障子を疾走して破った。いまから何十年も前、先立ちの日本のアーティストそういうことをやっていた。

電気服、今では世界中の人が知っている。田中敦子さんが感電死しそうになりながら電気服を発表した。周りの人から大笑いされていたが、それを貫いた。

 

吉原治良さんは、現 J-オイルミルズのトップだった。経営的な感覚があり、周りの人サポートをしていたので、具体は残っている。日本各地にそういう活動はあったかもしれないが残ってはいない。

吉原治良さんというビジネスパーソンでもあり、アーティストでもある人がおり、仲間と歩んだ、ということが大きい。

なので、これからはビジネスパーソンとアーティストが一緒にやることがとてもいい。

 

◆学校

あまりいい思い出がない。父の仕事の関係で小学校は3回転校。友達をつくっていかないと生きていけなくなるとわかった。お調子者。変な女の子が来たとなったほうが受け入れられるとおもった。人が笑うと嬉しい。

学校は集中して学ぶ貴重な時間であり、友達作りの場。

中のいい友達はひとりでもたくさんでも。親とも兄弟とも違う第三者となる友達がいて、その子が親身になって聞いてくれるだけでいい。そういう友達が一人いると精神が安定する。

 

しかし、田舎に転校した際、田舎は少しいじわるだった。机を探ったらカブトムシの幼虫がいて学校へ行けなくなった。

その時、隣りに住んでいたおじいちゃんが学校に行けなくなって3日目くらいに遊びに来てくれた。「学校なんか行かなくていいんだよ。俺も全然行かなかったから」と。それでスーッとした。行かないといけないとずっとおもっていたから。

 

◆世界は広い

半径3キロくらいの中に、自分の気持ちと同じ人はいなくても、世界は広い。何人であっても自分と同じような考え方をしている人はいる。海外に出て、はじめてわかった。国籍が違ってもものすごく意見が合う人がいる。実体験。日本だけにこだわらなくていい。

 

◆キミたちへのメッセージ

自分のおもいがこもったものは人へ伝わる。

敷居は低く、間口は広く、志は高く。そういうふうに仕事をしている。

2025年5月5日月曜日

学長くんガチョーン. 湯川れい子さん

■学長くんガチョーン. 湯川れい子さん


このコーナー、レジェンド女性が大勢登場してくれます。先日、湯川さんの米寿祝いをしたばかりです。評論家としても作詞家としてもビッグですが、日本の戦後ポップス史にぜんぶ関わってきた、その内実が重たい。引き続き、よろしく。

 

 

◆最初の作詞

1975年、涙の太陽。エミー・ジャクソン。

ラジオ関東(ラジオ日本)の洋楽のラジオ番組のアシスタントのエミーの歌がうまいというので、英語で歌詞を書くように言われた。R.H.Rivers(レイコ・ホット・リバース)名義で詞を書いた。70万枚近い大ヒット。

日本のクラウンというレコード会社がちょうどできたとき、そこにいた青山ミチがこの曲を日本語で歌いたいというので日本語詞も書いた。

数年後に安西マリアがデビュー曲で歌ってまたヒットした。

 

◆作詞家として

Do you knowをフランツ・フリーデル、尾崎紀世彦、日本語カバーを西城秀樹が歌った。60,70年代、作詞家・作曲家はレコード会社の専属契約だった。本当はフリーで英語で歌う人は存在してはいけなかったが、たまたま外で作ったものが大ヒットして、日本のレコード会社がそれを日本語で発売するときに訳詞(オリジナル詞)を書いてほしいといわれ書くようになったのが始まり。

 

正式に作詞家として作詞してほしいと依頼されたのは1980年、パイオニアのラジカセ「ランナウェイ」のCMソング。それが、ラッツアンドスター(シャネルズ)のデビュー曲となった。100万枚のヒット。

 

六本木心中は1986年ごろ。

あの頃は女性の演歌の人が天城越えや津軽海峡冬景色など素晴らしい歌を歌っていたが、実際の女はそんなに未練がましくない。尽くすだけ尽くして、この男だめとおもったら振り向かない。なぜこんな歌ばかり女の人は歌うんだろう、とおもったときに作家が全部男性だということに気がついた。男性の作家が書いている限り女はこんな歌ばかり歌う。

そんな中アルバムの中の1曲として好きに書いてください、と曲を先に渡され、シンディー・ローパーへインタビューのためにニューヨークに向かう深夜便の中で六本木心中の日本語詞をはめて書いていった。アラスカ周りのフライト、みんなが寝静まっているときに窓を開けたらオーロラが輝いていた。それを見ながら書いたのを覚えている。

 

◆音楽評論家のはじまり

1936年生まれ。高校を卒業するのがやっと。実家は下宿を経営していた。大学へ行くことは考えてなかった。

いかに母を一日でも早く安心させるか。母は口を開けば、早くお嫁に行って、女の幸せは結婚だから、と言われ続けていた。

 

女性の仕事のロールモデルが全くなかった。女優かカフェの女給くらいしかない。初めて女性のモデルが出てきた頃。

そんな時代、自分がなにになれるか分からなかった。新聞の三行広告をみて仕事を探した。そこから独立プロの新人女優にもなった。

 

そんな中1953,4年くらいに米軍の兵隊が日本に運んできたモダンジャズにズボッとハマった。ジャズを夢中になって聴き始めた。

大橋巨泉や無名時代のサクソフォン渡辺貞夫やピアノ穐吉敏子などが集まる小さな店で、米軍の兵隊が持ってくるニューヨークやシカゴから直送されたモダンジャズを高校2,3のとき30円のコーヒー代を払って通い必死になって聴いていた。

その中から大橋巨泉がメキメキ売れ出してきた。その頃はまだ早稲田の学生。最初は銀座のテネシーやアシベなどジャズ喫茶で日本のバンドが歌うところの司会。ジャズ評論家として出てきたのは1953か4年くらい、レコードのライナーノーツ。ビリー・ホリデイのストレンジ・フルーツ。初めて自分のお小遣いをはたいて買った。

それを読んでこういう仕事もあるんだ、とおもった。

 

ジャズの専門誌スイングジャーナル、その中に読者論壇というページがあり800字までで投稿すると掲載される。そこに2回ほど投稿し、掲載された。(1959,60年)

ある日、「オメニカカリタシ オデンワコウ」という電報がスイングジャーナルの編集長から届いた。

電話をして新橋の喫茶店に行った。25歳くらいの若い男の人(岩浪洋三)がいた。若い女性である自分を見てすごくびっくりしていた。あなたの投稿にものすごくファンレターが来ているので、本気で書いてみないか、と言われた。聴いている人さえいないのに、ジャズについて書いている女の人はぜひおもしろいから、と。

書かせてください!と言ったのが今の仕事のはじまり。

 

その後、アート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズが初めて日本に来る(1961年)ことになって、インタビューをいきなりスイングジャーナルの編集長(岩浪洋三)に頼まれた。

 

◆いまの若い世代におもうこと

どんな時代でもやりたいことに夢中になること。

環境問題、世界の平和・経済問題が唯一の壁。その中でも自分がやりたいことを見つけられたらそれでいい。あるはず。自分にだってある。

 

◆息子さんの学校・教育

47歳になる息子がいるが、学校にはとても悩んだ。

まず、区立の小学校に入れようとおもい、見学に行ったら、三年生の教室に生徒の名前が成績に合わせて張り出さだされていた。こんなことを小学三年生でやられたら未来がないとおもい、これはやめようとおもった。

 

先生が質問する前に子どもが質問できるようなところはないかと探した。環境運動で西ドイツへ行った。小さい子に先生がお弁当のゴミは地面に捨てられるか否か全部聞いて捨てさせていた。そういうところを探した。

 

インターナショナルスクールで、息子は小学1年生で留年した。英語が追いつかなかった。中学1年になるときにも留年しそうになった。サッカーが好きでやっていたが、2年も留年すると身長差が大きくなる。こんなに大きくなってみっともなくて留年できないと、14歳で留学することを選んだ。スイスへ。

見学に行き、ドミトリーもよく、英語もフランス語も学べる。

その後寒くてスポーツもできない、と高校2年のときにアメリカへ転校。

 

息子へ唯一、英語で食べていこうと思ったら、対等に喧嘩できるくらいにならないとだめだと伝えた。息子はなんとか自分の好きな仕事ができるようになった。

 

◆学生時代の思い出

良妻賢母を育てるような女子校に行っていた。家庭科で料理を教えるためにアメリカの女の先生が来てくれるのが、唯一生きた英語だった。

フィリピンで戦士した18歳年上の兄が防空壕を作ってくれていた3日間吹いていた口笛の曲がある日、米軍放送FEN(WVTR)から流れてきた。兄に当時そのきれいな歌はなんですか?と聞いたら、僕が作った欲だよといった。なんでその曲が米軍の放送から流れるんだとおもった。中学時代毎日学校から帰ると米軍放送を聴いていた。その曲が聴き取れるようになった。ハリー・ジェイムス オーケストラのスリーピー・ラグーン。それを本気になって調べたのが、スイングジャーナルに投稿する前の、音楽の畑を耕していた時代。徹底的にFENから聴こえてくる曲は全て覚えた。今でも兄の分も生きてきたとおもっている。

 

◆キミたちへのメッセージ

地球環境的に人類史的に大変な時代になるとおもうが、それでも生きていかないといけない。だとしたら、どうやって楽しく、ないものをわけて、ないものをつくって、増やして、わけあって、新しくつくって増やして、量産していけるかというところに道がある。ビジネスでも楽しいことでも。地面にかじりついてでもなんとか餌を作って楽しくおひさまと一緒に空気を美しくして生きていってほしい。絶対絶対絶対夢があったら叶う。頑張らないで頑張って。

2025年4月28日月曜日

クールジャパン:鉄板焼

■クールジャパン:鉄板焼


NHKクールジャパン「鉄板焼」の巻。

 

鉄板焼きって、鉄板という器具で焼くというだけの料理法だから、肉や野菜だったり、お好み焼きや焼きそばなど粉もんだったり、とても多様。

高級ステーキハウスから街角のもんじゃ焼き屋さんとか祭りの屋台とか、幅も広い。

寿司や天ぷらのように客の目の前で調理されたり、客が自分で焼いたりする。そういうスタイルのレストランって日本独特なんじゃないかな。

 

「鉄板愛」

肉にしろ焼きそばにしろ、屋台にしろキャンプにしろ、鉄板焼きに共通するのは、目の前で焼いて、そのまま食べるということ。目で食べて、そのままアツアツでフーフー食べる。このダイナミックな、作ると食べるの一体化。

お好み焼きももんじゃ焼きも、こだわる人は、自分でヘラで焼いて、そのヘラでそのまま食べる。鉄板焼きへの愛情を感じる。

しかも、鉄板を育てる、という人もいる。鉄板愛ですね。

 

「広島お好み」

店によって鉄板の厚みやバーナーの位置などが細かく計算されているのだが、さらに、鉄板にわざと傷をつけるっていうこだわりは日本らしい。

一方、そこまでこだわる日本料理なのに、G7のいろんな鉄板焼きを作るっていう遊びごころもおもしろい。世界各国の料理を鉄板焼きで、目の前でどうぞ、ってできそう。

 

「パフォーマンス」

寿司、天ぷら などの店は、作り手と客がちょうどいい距離でカウンターをはさんで、作って、見せて、お話する、というコミュニケーションを軸にした設計になっている。

鉄板焼きが最初、海外でパフォーマンスのエンタメで人気を博したのは、コミュニケーションのとんがった部分が受けたのでは。そこから鉄板焼きのおいしさが認知されて広がってきたのだと思う。

作る、見せる、食べる、話す、というコミュニケーションが鉄板焼きの基本。

2025年4月21日月曜日

学長くんガチョーン. 湊三次郎さん

■学長くんガチョーン. 湊三次郎さん


京都の街を散歩して、梅湯のたたずまいに惹かれまして。調べてみたら面白い。んで凸撃。

静岡生まれの湊さんは大学で京都に来て銭湯サークルを立ち上げたひと。廃業寸前の梅湯を24歳で継いだという事業承継モデル。京都名物のサウナ銭湯、盛り上げてください。

 

◆京都の銭湯の魅力

京都の街には銭湯がたくさん残っていて、住んでいる方たちにとって生活の一部にしっかりなっている。京都は学生が多い。自分もその一人。田舎から来て京都の街に入る入口が銭湯だった。ローカルと人を繋ぐ場所。

 

◆サウナもある銭湯

京都市内はサウナ無料という銭湯が多い。梅湯は490円。物価統制令のため上げられない。

 

◆グッズ販売

企画するのが得意なスタッフがおり、つくってもらっている。商売として入浴料以外の収入の軸が欲しいので、オリジナルのグッズ販売をしている。

梅湯は良くも悪くも観光地化しているのでおみやげとして買っていく方も多い。

 

◆様々な地から

沖縄から北海道。海外からも来る。

 

◆銭湯の立て直し

一客として銭湯が好きだった。このまま放っておいたら、だれもなにもしないまま消えていく。だれもやらないなら自分がやろう、というのが銭湯を立て直すきっかけ。

コンサルしているところも入れると、東京・愛知・近畿など10件。

 

◆日本人に来てほしい

日本人に来てもらいたい。観光地していたら、あまり意味がない。地域の人が利用する場所であって欲しい。日本人でも銭湯に行ったことがない人が多い。まずは身近に住んでいる日本人に来てもらうことが最優先。

 

◆キミたちへのメッセージ

日本全国にたくさん銭湯はある。近所に見かけたことあるよって方は、少し勇気がいるかも知れないが、暖簾をくぐってみてほしい。

2025年4月14日月曜日

学長くんガチョーン. 中村元さん

■学長くんガチョーン. 中村元さん


世界でただ一人、水族館プロデューサー。実は日本が水族館大国であることはNHKクールジャパンで学びました。これを創作しつづけるゲンさん。道を拓いたかたです。

 

◆水族館プロデューサー

水族館の展示を良くして、お客さんを増やし、満足してもらう水族館をプロデュースする。

 

東京だとサンシャイン水族館。子ども向けの水族館だったのを大人向けにして、魅せ方を変え、お客さんが3倍になった。

 

もともとは三重県の鳥羽水族館。

魚にも海にも興味はない。嫌々ながらはいった、水族館の職業。周りはみんな魚オタク。その人達は魚と話していればいい。お客さんのことをなにも考えていない。

ここでお客さんのことを考えられるのは自分だけ、というのをうまくつかった。それまでは飼育だったが、展示をメインにした。

鳥羽水族館の中で自分の生きる道として見つけたが、日本中どこを探しても自分しかいなかった。

 

水族館に入り3年間は飼育係。絶対周りには敵わない。そんなときに燃える。その中で一番になるには、魚のことじゃない。違うことを見つけなければ。お客さんに目を向けた。

入社して4年めに、水族館・動物園のなかで初めて広報部門をつくった。ひとりでやった。パブリシティに出すことでお客さんがガンガンくる。

 

水族館も動物園と同じように子どもを呼べばいいと思われていたが、大人を呼ばないとだめなんだということに気がついた。

鳥羽水族館をリニューアルするときのプロデュースで、デートに使える水族館というのを売りにした。

デートスポットにしたことには意味がある。それまでは暗く、ベチャベチャしておりきれいな服で行けないので女性が少なかった。女性が行きたいとおもう水族館にしようとおもった。女性が行きたくないところにはカップルも家族も来ない。

女性のための水族館というと、いやらしいので、デートに使えるというと、なんとなくおしゃれな人達も来てくれるとおもってそういうキャッチにした。

 

きっと日本人はもともと水族館が好き。川や海の幸に育まれて生きている島国の人。川や海の生き物に興味がある。日本人は未だにアニミズムの世界観を持っているので、川・海・天候に人間も生かされているとおもっている。海に対し感謝の気持ちと恐れの気持ちがある。魚に対してもある。生き物に対する考え方が他の国と少し違う。

 

水族館には魚を見に来る人はほとんどいない。水中の光景を見に来る。

水中の光景を「水塊(すいかい)」と呼んでいる。水中の神秘さや恐ろしさを感じに来るのが水族館。日本人は魚を観察するより先に、海の中を実感しに来る。世界を見に来る。

 

年に4回「超水族館ナイト」というトークライブを開いている。もう50回くらい(2023年時点)やっている。最初の時から各地の水族館から若い人が学びたいと来ており、毎回20人くらい来る。皆貧乏なので、朝までご飯を食べさせている。その人達が門下生と名乗り始めた。そこにゲストも入れて、ゲストの深い話も。寺子屋みたいなもの。

 

◆学生時代

学校では結構つらいを多くした。賢いわけでもなく、足も遅く、自分の弱点に悩まされた。それがよかった。

幼稚園の時からめちゃくちゃモテたかった。その頃は足が速くないとモテない。

小学校1年生頃、運動会の時に親戚のおじちゃんが生卵を飲めば足が早くなると教えてくれた。それだ!と思って毎日飲んでいた。運動会の日に3つ飲んでお腹がだめになった。

逃げようとおもったが、みつかった。半分以上ゴールについているときに出たらとてもウケてモテた。足遅いのも面白いことにしてしまえばモテる。

サルでもなんでも目立てるやつがボスになる。

 

自分で自分の道を歩むということを幼稚園から大学までで教えてもらった。ゴールはモテること。

 

◆キミたちへのメッセージ

弱点は使える。長所で戦うのはライバルばかりだからだめ。長所で戦いたいときは、それが使えないところへ行ったらとても長所になる。靴を売りたければ、靴を履いていない地域に行ったらよく売れる。そういうところを探して、そこで長所を伸ばす。

長所と弱点はうまいこと使って。