■浦沢直樹さんの授業(後編)「おもしろ水」
マンガには2大革命があったと浦沢さんは言います。
ロックにもいくつかの革命がありました。映画にもありました。文学にもありました。ファッションにもありました。
そもそも、コンテンツのベースとなるメディアにも革命がありました。15世紀の活版印刷、1895年リュミエール兄弟の映画、同じ年のマルコーニのラジオ、1926年高柳健次郎のテレビ、そして1980年代以降のゲームやネット。
ただ、ジャンルやメディアが変われど、「創作する」ことの大本は変わらない。という気がする。違うかもしれない。そのコアは、クリエイターに聞かねばわかりません。
浦沢さん、一級のプロかそうでないかの分かれ道は何ですか?
「2発までは行ける。3発目が出せるかどうかだ。」
ああ、それ、音楽の世界でも聞きます。プロで食えるかどうかは、多作かどうかだ、とも聞きます。
その点、もちろん浦沢さんは爆発的ヒットを何作も叩きだし、しかもそれらそれぞれが6年も7年も続く連載であったりする。1発、というのがでっかくて、うんと長い。それが音楽や映画とマンガを分けるポイント。
多作ということでは、以前コメントした手塚治虫・石ノ森章太郎の欄でも触れましたが、両先生とも多作でした。石ノ森章太郎さんは個人全集が770作品にのぼり、ギネス認定を受けています。だから両先生とも60歳で亡くなってしまった。
浦沢先生、おからだお大切に。
ま、多作といえばピカソ。絵画、版画、彫刻など生涯作品は約15万点にのぼり、現役の年数で割ると年に2000点、だから1日5-6作品を生んだ計算になりますが、それで91歳まで生きてるんだから、気にしなくていいか。ピカソのように、恋せよ、ってことですか。
浦沢先生、おからだお大切に。
構想の話に驚きました。
マンガ作品を作り始める、その構想。まず最初に大きなムードを着想する。こんなマンガがあったらいい、というところまで熟考する。そして、こういうかんじ、というのをデリケートにつかむ。んだそうです。
両手に「おもしろ水」というのが一杯に汲まれるんだそうです。それを、いかにこぼさずにゴールに辿り着けるかという感覚なんだそうです。
頭に思い浮かべたものをそのままストレートに世の中に発信できたら世紀の大傑作が生まれるはず、とおっしゃる。それが連載の途中でボタボタと垂れていってしまう。ゴールに辿り着いたときにはかなり水がこぼれている。それをいかに少なくして、最初に浮かんだものを届けるか。ということなんだそうです。
「ビリーバット」も、浦沢さんの中にある「おもしろ水」を、今ポタポタ垂らしつつも運んでいる最中なんですね。ぼくらはその水をグビグビいただきつつ、ポタポタ垂らさないでどんどん持ってきてくれい、とマンガ誌や単行本を買い続けるわけだ。
頭の中にできあがる、これ以上なく濃密な、たぷたぷしたイメージ、言語化できない結晶、それはマンガでしか表すことができない。それを毎週少しずつ、だけどそれも濃密な線で描き出し描き出し、具体にしていく。それを6年も7年もかけて、当初の、濃密でたぷたぷした結晶を、その輝きを損なわずに描き切る。
ムリ。
想像するのもムリ。
それを、やり続けている人が目の前にいる。
感動します。
ところで「モーニング」が電子出版を始めましたが、浦沢さんは掲載していませんね。
「紙で読むことを想定して描いてるからね。タブレットはアニメも音楽も扱えるわけで、ペンで描いているものに対して色や動きが出ないかと思われるのもどうかと。タブレットならタブレット向きの表現があるはず。」
至極もっともな意見です。紙というインタフェースで読まれるために、ペンで描く。それがマンガ家。それを別の、大きさも質感もある種不完全なインタフェースでは見せないというのは、作家としてしかるべき態度でしょう。
そこは同じ電子出版でも、文字を読ませる電子書籍と映像表現としてのマンガでは作家のこだわりが違いそうです。ピカソに作品をiPadで売ろうと持ちかけても同じ理由でイヤだと言われそう。
でも、そうであれば、デジタル屋としては、マンガ家に「これならば」と認められるインタフェースを用意したいですね。「ぺらぺらのiPadなら考えるかな。」と浦沢さんはおっしゃってましたが、これならば一級の作家が飛びつく、というデバイスはどういう代物でしょうかね。
ま、ぼくはぼくで、あいかわらず「デジタルえほん」のコンテンツを開発して、現在のデバイスでできる表現の枠とクオリティを拡げる努力を続けるわけですが。
2012年、パリでのJapan Expoで神として熱狂的に迎えられ、浦沢さんの本の帯にも「フランスに認められた」と書かれたことに対して、あるいは、日本のマンガがフランスはじめ世界に高く評価されている現状について、どう感じます?
「おめーら、気づくの、おせーよ。」
だよね〜。
言ってみて〜っ。
世界が気づいたのは最近ですもんね。
海外にも、日本政府にも、見出されず、放っとかれて、戦後ずっととてつもない進化をガラパゴスで煮詰めてきました。70年代にアニメがヨーロッパから発信されたあとも、マンガが内外で評価を確立するには30年以上を要しているわけです。
「放っといてくれて、ありがとう。」
浦沢さんのコメントです。重いですね、これも。政府やら世界の権威やらがいじくらなかったからこそ、マンガの今がある。奥地の沼や清水の源流に生息するムカシトンボやオオサンショウウオのように、じっとりと成熟してきた表現がオモテに出てきて神格化しているわけです。
それをビジネスにするのも必要ですが、同時に、ビオトープとしてずっと活かし、育て続ける。どうすればいいんでしょう。天敵や害虫が増えても死なない、たくましく新種が生まれ続ける、そんな増殖炉って、できるんでしょうか。
放っておきたい。
放っといても大丈夫なようにしたい。
その沼地に、「おもしろ水」がコンコンと沸き上がるようにしたい。わけです。
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