■五輪のレガシー
無観客なれど開催が決まった東京オリパラについて、その意義とレガシーを問うと某新聞社からインタビューを受けました。
ぼくは内閣官房のオリパラ参与を務めたこともあり、オリパラ肯定はブレませんが、コロナで状況が変わってもいるので、改めて答えました。
前回の五輪が戦後復興からの「開発・成長」を示すものだったのに対し、今回は震災復興からの高齢化や環境との共生という「成熟」を示すものとして誘致されました。
全世界にテレビ中継された前回の五輪から、ネット時代を経て、AIのSociety5.0を示す五輪でもありました。
それがコロナをかぶり、復興の位置づけも、成熟の意味合いも、デジタルの重要性も一変し、五輪を開催する重要性が以前よりも格段に高まったと考えます。
開催しないという判断は、それを負う気概をなくし、日本の終焉を世界に宣言することだという怖れさえ抱きました。
開催、何よりです。
死者数は少なく、超過死亡率はG7で日本だけマイナス。医療も崩壊していません。
ロックアウトもせず、自粛を「要請」するだけで、暴動も起きない。
興行もスポーツも管理されて開かれ、クラスター問題は聞きません。
できます。
成熟を示す五輪、SDGs五輪たることが期待されていながら、結局80年代からの商業イベント色を引き継ぐ設計が進められてきました。
しかしコロナで商売の目論見は外れました。
これにより、アスリート中心の、スポーツに純化した大会となります。
それは今大会が過去の路線に区切りをつけ、元の近代五輪に立ち返る機会となり得る。
IOCの求めとは異なるかもしれませんが、五輪を五輪に戻す、それこそが第一のレガシーではないでしょうか。
コロナからの復興が第二のレガシーでしょう。
前回は大戦という文明、今回は疫病という自然。
いずれも人類が数千年間もがく問題であり、2回とも世界規模で苦しんだ問題。
前回は敗者として復興を示した。今回もまだ勝ちを収めたわけではないが、光は差している。
いま世界共通で分かち合える光の体験は貴重です。
日本はメッセージを発し得る、史上初の好位置につけています。
米欧中露どの大国も、コロナがなくとも政治は揺れています。大国間の対立も高まっています。
そんな中、日本はほぼ唯一、政治が安定し、騒乱なく平穏で、どの国ともけんか腰にならず対話ができます。
地球のへそとなる、歴史的チャンスです。
「コロナを乗り越えた象徴」などと政府首脳が言うような威勢のよい状況ではありません。
けれど、対策を取りつつ開催できれば、日常を取り戻す喜びを世界と共有することができましょう。
その機会を放棄するダメージを負わず、安堵します。
第3のレガシーがデータです。
テレビ幕開けの前回東京大会から半世紀、全競技ネット配信は2012ロンドンが実現、そして2020東京はAI・IoT、VR・AR、4K8K5G、ロボット・ドローンの総合ショウケース。豊かな観戦となる。
メディア史的にはそう位置づけられるはずでした。
しかし無観客大会となり、伝える映像も想定と異なるものになります。
整備されたスマートスタジアムなど、現場で使われる技術の出番も少なくなるかも。
他方、コロナで世界中が巣ごもりし、デジタルが一気に前進しました。
みんながつながって参加・応援することに、技術はより使われるかもしれません。
いっそ観客席ぜんぶにディスプレイやロボットを敷き詰めて、世界中の人々がアクセスして顔出しして大声援を送る。
そんなこともできますよね、スポンサーが元気なら!
新しい観戦法を生むチャンスたり得ます。
現場でリアルに観る。
超巨大パブリックビューイングで没入して楽しむ。
その機会が奪われるなら、レガシーとして、データを重視したい。
選手の競技データを、オープンに使えるようにしてほしい。
これは要望です。
映像・データがあれば、五輪を再現できます。
100m走金メダリストの走りを3D8KのARで映し、自校の運動場で競争できます。
棒高跳び金メダリストのジャンプ姿をビル壁に投影し、目の前を跳んでもらえます。
世界のどこでも、ずっと再現できます。
批判も強い中、しかも無観客という苦渋を伴い、開催を決めたのは英断です。
後世に讃えられるレガシーを期待します。
逆に、データや権限が不明確なまま地方開催さえ無観客とされた「空気圧」をレガシーとせぬよう願う次第です。
追記:
五輪開催の賛否でこの国の分断を感じました。
おおごとにならず、これも安堵です。
ただこの分断は深い。
積極と慎重、この機に分かれた姿勢や気分は繰り返されそう。
思想や信条や組織を超え、この差が人の立ち位置を定める気がします。
そしてぼくは残りの人生、積極のひとと仕事をしていくんだろうなぁ。






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