Twitter

検索キーワード「梅棹忠夫」に一致する投稿を関連性の高い順に表示しています。 日付順 すべての投稿を表示
検索キーワード「梅棹忠夫」に一致する投稿を関連性の高い順に表示しています。 日付順 すべての投稿を表示

2021年9月20日月曜日

京都の平熱

■京都の平熱


鷲田清一さん「京都の平熱」。

一乗寺の恵文社にぽつんと置いてあった。

読んでへんエラいこっちゃ。

あわてて買うてつけ麺「恵那く」に持ち込んで喰い読み。

祇園、岡崎、京大、下鴨、西陣、島原。東西南北ぐるり。

深い文化哲学ながら鷲田節が炸裂しています。


鷲田先生、阪大総長のとき初めて会いました。

ネット安全の協会を率いていただくお願いで。

中高大の後輩ですと挨拶したら「小学校どこ?」

京都人だけがやる小学校対戦。

御所に近いほうが勝ち。

ぼく修学院なんでほぼ勝ち目あらへんやん。


全共闘が百万遍の路上で火炎瓶を投げて機動隊と対峙した、と書いたあります。

小学生のころチャリで見物に行きました。人生で唯一、火だるまのひとを見ました。

京大の西部講堂で先生が「ロックコンサートを最初にした」、と書いたあります。

そうか。西部の先輩でもいらっしゃいましたか。


さてそんな「平熱」を、他の人ではさばけない筆致で描かはります。

ピグマリオンの人工美学、として、日本初のマネキン、ワコールの身体改造と

舞妓のしつらえにDX東寺(過激なストリップ小屋です)とを並置する。

その文脈に「河原町のジュリー」を登場させます。

鷲田節やなぁ。


京セラ、オムロン、ムラタ、堀場、島津、任天堂、ワコール。

京都企業の特徴は1.ベンチャー、2.伝統工業の技術移転、3.精密工業 と整理します。

そして「DX東寺の機械式空中ゴンドラの精巧さ」と結論づけます。

鷲田節やなぁ。

そのゴンドラ、読者ほとんど見たことおませんで。先生。


京都人のきわもの好きとして、歌舞伎を生んだ地がグループサウンズ(ザ・タイガース)やフォークソング(フォーククルセダーズ)を生んだ、その陸続きを説きます。

舞妓の足し算、修行僧の引き算というファッションが代表する異形の両極が入れ子構造になり「奥」を形作る。きわものの幅も京都です。


祇園甲部、舞妓さんの学校。

舞踏科、長唄科、小唄科、浄瑠璃科、笛科、華道科、絵画科というカリキュラム。

京都の「奥」ですね。

そんな奥、のぞいてみたいわぁ。

(実は、祇園の教えを受けられる学校づくりをこっそり企画しています。それはまたいずれ。)


西の海でとれる魚で京都まで運んで生きてるのは鱧だけ、食材が貧しかった、と京料理を斜に眺めはります。

一方、力餅食堂に大力食堂。しっぽく、にしんそば、たぬき。町なかの飯屋はショウケースにきなことあんこのおはぎが必ずある。山本まんぼのべた焼に天下一品本店。B級愛がほとばしります。


京都は「さてん」の町。

進々堂、らんぶる、築地、六曜社、しあんくれーる、蝶類図鑑・・。

登場する店ぼくもぜんぶ行ってる。けど、京都のさてんでは誰かと会った記憶はない。

先生の言うとおり「独りっきりになるための場所」だから。

はて、東京では、独りっきりになるための場所ってあるかな?


もちろん、京ことばにもひとことあります。

おうどんやさん。お豆さん。おいなりさん。おひさん。

お・・さん、とつけるしきたり。

京都ですな。


お父さんが言わはる、と家族にも敬語的な表現を使う、という京都の特徴も。

これについては、梅棹忠夫さんは「町民の無階層、市民対等意識」と分析します。

松田道雄さんは「第三者の行動の客体化、三人称単数のsと同様」とします。

京都の大家がみな気にする表現なのですな。


ついでに、梅棹さん、松田さん、そして加藤秀俊さんの京都本を推薦しときます。


「梅棹忠夫先生の「京ことば」」

http://ichiyanakamura.blogspot.com/2013/03/blog-post_18.html


「梅棹忠夫の京都案内」

http://ichiyanakamura.blogspot.com/search/?q=%E6%A2%85%E6%A3%B9%E5%BF%A0%E5%A4%AB


「松田道雄さんの京都追憶」

http://ichiyanakamura.blogspot.com/2013/03/blog-post_25.html


「メディアの発生」

http://ichiyanakamura.blogspot.com/2014/06/blog-post.html

2013年3月18日月曜日

梅棹忠夫先生の「京ことば」

■梅棹忠夫先生の「京ことば」
 

「梅棹忠夫の京都案内」に登場する京ことばの解説、愉しく読みました。 
 そのとおりや、いう指摘や例示。
 "ふつうの物質名詞に敬語的表現が多い。"  ナス「おなす」、豆腐「おとふ」、醤油「おしょゆ」、まんじゅう「おまん」、お茶「おぶ」。  --- 四角いもんもま~るく呼ばれてるかんじ、しませんか。
 東京では「ひ」が「し」に転化する。しびや。 逆に、"京都では、「し」が「ひ」に転化する。" ”質屋の看板に「ひちや」とかいてある。”  --- ああ、たしかにそやったなぁ。「しましょう」は「しまひょ」。
 ”京都の名詞には一音節語がない。" 木「きイ」、葉「はア」、毛「けエ」。 "格助詞の大量欠落がある。" 本よむ、着ものきる。"特徴のひとつに短音化がある。" 早く行こう「はよいこ」。  --- これらは京都に限らず、関西だいたいそうなんちゃいます?
 "語尾の助詞がものすごく発達している。"  「いきますわ」の「わ」は男のことば、女だと「いきますえ」。  ---  女ことばに京らしさが強く表れます。女流文化性が強いんですな。
 「してごらん」は「しとおみ」、「おいで」は「おいない」、「おくれ」は「おくない」。  -- これは京都独特の言い方でしょうか。京都のひとは普通に使いますが、よそではあまり聞きません。
 バツといういいかたは、京都語には全くなかった。"バツ印をわたしらは、ペケといった。マルペケ式である。"  --- あっ、関東ではペケは使いませんか?

 文法的に解説されると、ふむ、そう整理されればそやな、初めて気イついた、いうもんもあります。
 京ことばの特徴「どす」は、東京の「です」、大阪の「だす」に当たる。動詞の肯定文は「どす」で終わる。だが、"形容詞肯定文は「おす」になる。" そら、よろしおす。  --- そやな。
 "修飾語の畳語的表現がある。” 形容詞又は副詞の同じ語を二度続ける。おっきい、おっきい犬。さむうさむうなった。 --- ああ、これ関西人の特徴なんですかね。ぼくも、二回くりかえして強調しますねと指摘されることがあります。笑い飯に、サイクリングセンターに行って、なっがいなっがい髪、とか、くっさいくっさい屁えとかボケ合うネタがおました。奈良の人もくりかえさはるんやね。
 "動詞の否定表現は未然形に「へん」がつく。" しまへん、いきまへん。 だが、"一段活用の動詞の否定形はちがう。「みる」は「みへん」ではなく「みいひん」となる。「へん」のかわりに「ひん」がつく。"  -- そやな。京都出身やない俳優さんが京ことばをきちんとこなそ思たら、たいへんな苦労があるいうのも仕方おませんね。
 京都と大阪は異なる。五段活用の動詞の場合、京都語は未然形「よまはる」「かかはる」、大阪語は連用形「よみはる」「かきはる」。 --- そう、違いがあります。「動かない」は京都では「動かへん」、大阪では「動けへん」。「動けない」は京都では「動けへん」、大阪では「動かれへん」。むつかしおす。

 そして、言葉が用いられる社会背景について触れたはります。
 「○○ちゃんがたたかはった」「おとうさんがかかはりました」。けんか相手や身内にも敬語的な表現を使う。 --- これは京都の大きな特徴ですね。ペットの犬のすることも敬語的に言うたりしますし。梅棹さんは、京都人の市民対等意識が強い点に理由を求めたはります。

(なお、本件について、松田道雄「京の町かどから」は、「〜はる」は身内に敬語を使っているというより、第三者の行為を客体化して示しているだけであり、英語の三人称単数で動詞にsをつけるようなものとする。She weepsは「泣かはる」「泣いてはる」以外に京都語に訳しようがない、とする。この説明は至極しっくりくる。)
 よそから京都の大学にきた先生がタバコ屋で「おい、タバコくれ」といった話。 "そういういいかたは、京都では絶対にありえない。「すんまへんけど、タバコおくれやす」となる。京都の町が無階層的、市民対等意識という基本原則に貫かれている"  --- ぼくもタクシーで「すみませんが六本木までお願いします。」などと言い、同行者に「丁寧すぎないか」と反応されることがあります。それは気の弱いぼくの処世やと思てたんですが、単に京都出身者のクセに過ぎないのかもしれません。
 ただ、帝や貴族以外の町民に対等意識があるとしても、他区域の者に向ける目線の冷ややかさは揶揄のサカナになることも多いですね。そのあたりは、京都のコアである西陣そだちの梅棹さんと、実家が西陣でも東山のはてで育ったぼくとでは感覚が違うかもしれません。京都のひとは初対面の相手に、小学校どこ?と聞くことが多く、現にぼくも前大阪大学総長の鷲田清一先生に会うたときにそう聞かれ、うわさすが京都人、と思たもんですが、それはとりわけ中京とか上京とか都のまん中に育ったひとに多いんですよね。
 「世界で美しい言葉は3つ、一つは仏トゥール地方のフランス語、北京の中国語、そして京都の日本語」という説を引いたはります。梅棹さん的には、パリは失格だそうです。 "うがいのときにしかださないような、ものすごい発音があったりする。"  --- Rがガに似た発音になる、いうことですね。Hは読まへんし。うちのスタッフのヒラタヒロコさんはパリではイガタイゴコと発音されたはります。
 京都のひとが「今から事務員さんが作ってくれはった栗ご飯をよばれます。」というメールをイガタさんに送ってきたことがあります。北関東出身のイガタさんは、およばれに行くんですね、と返事してました。ああ、ちゃいます。栗ご飯をよばれる、は、食べる、いうことです。事務員さんちに行くんと、自宅で食べるんとでは、全然ちゃいますね。実に、むつかしいですね。

2013年3月11日月曜日

梅棹忠夫の京都案内

■「梅棹忠夫の京都案内」 

 梅棹忠夫さん。
 1920年、京都・西陣に生まれる。
 京大理学部卒。京大人文科学研究所教授、国立民族博物館初代館長。2010年没。
 ぼくは面識もかなわへんかった大先生。その文庫本がいまどき京都駅の売店に積んだあったんで、ペラペラめくってみたら、1951年から65年ごろの論稿をまとめたものやとか。
 えらい古くさいな。ぼくが生まれる前や生まれたころの暗ろ~て抹香臭い京都の観光案内かいな。
 ほんでも、市川崑の「鍵」や市川雷蔵の「炎上」や川島雄三の「雁の寺」あたりの京都のたたずまいを文字で確認するんもええかと思い、購読。
 千年の首都でありながら、明治の革命とともに政治・経済力がそがれてもうて、没落する京都。
 故郷への愛情とシニカルな視線が交錯してるくせに、東京はじめ外部へは意図的に向ける上から目線が、微笑みを誘います。
 西陣という京のまん中で育った梅棹さん。ぼくも実家が西陣なんで、時代は違えど空気ははんなりわかります。
 これは京都の外のかたがたに向けた案内書やおまへんな。あくまで京都人が京都人に書かはったもんでしょ。

 本願寺、御所、金閣寺、賀茂川、祇園。そないな観光名所を並べて軽う解説したはります。それはよろし。
 でも、そこに挟み込まはったエッセイが面白い。そんなん知ってるけど、あえて言われたらおもろいな、いう話と、へえ知らなんだ、いう話が転がってます。
  おもろい話。たとえば、"京都にはふしぎな店がある。清水の七味唐辛子、祇園のお香煎(シソの粉)屋など、いずれもそれだけしか売っていない。ひどく専門 化したものである。" --そうどす。西陣の呉服屋で和服えらんだとき、ハカマ屋、帯屋、下駄屋、足袋屋、羽織のヒモ屋、関係ないのに和菓子屋もきて、一 人の客=ぼくの相手をして、小あきないの専門店が「アテらみな400年続いてますねん」言うたはりました。はいからに言うたら、モジュール経営でんな。
  辛気くさい町です。「聞香」という、香をたいて、その種類をあてる香道いう芸の紹介がおます。"いかにも京都らしい、閑なあそび"。"暇人がたくさんいま す。"  --貴族と、坊主と、ブルジョワ商人と、学者。ぼく、大学のころ祇園でバイトしてましてんけど、ロールスロイスで乗り付けてくるお金持ちいうたら、お坊 さんかお医者はんでした。ところで、うろ覚えですけど、「家畜人ヤプー」の未来帝国イースにも香の文化があったんちゃいましたっけ。

 芸 妓・舞妓は京都のブルジョワが金に糸目をつけずに念入りに育て上げた、とあります。徳川時代、お金をもうけても、海外貿易は禁じられ、投資対象は多くな く、"けっきょく、みんな女に投資した"。 --ええこっちゃがな。京都の姉妹都市ボストンに住んでたころ読んだ「Memories of a Geisha」いう本、旦那はん松下幸之助さんやいう噂でしたけど、そういうことでんな。現代、ブルジョワが少のなりました。ブルジョワはんらは、ビジネ スに投資するばかりやのうて、文化に盛大お金使てください。
 ベンチャー育成は文化政策や思いますねん。1億円のベンチャー100社つくるんやっ たら、任天堂はんや京セラはんみたいな大きい会社が100億円積んだらええことですわ。経済としては。それよりベンチャー増やそいうんは、もうけた独裁の 創業者が芸事やら骨董やら女やらにお金まかはるいうことでしょ。文化ですねん。やってほしことは。京都人が流れて興した大阪・船場の血イ引くCSK/セガ の大川功さんが夜ごと芸者衆におひねり渡したはったんは、それわかったはったからどす。
 "岡崎公園は、むかし白河上皇が院政をとられた法勝寺の あったところである。"  --その名をもろた左京区岡崎法勝寺町に、ぼくがいたスタンフォード日本センターがおました。NHKクロ現の国谷裕子さんのご両親が大家さんでして。え らいお世話になりました。2006年、ぼくの契約が切れるときにスタンフォード大学は家賃が必要なその建物を手放して、同志社大学の中に移設したんでっけ ど、もったいのおしたな。
 いや、そら同志社かて、向かいは御所やし、ヨコに冷泉家はおますし、ウラは金閣・銀閣の親玉の相国寺ですし、そこに雁 の寺もおますし、ええ土地ですけどな、法勝寺から出てくことおませんやん、借金かかえたわけでもなし。そのへんの塩梅はなんぼゆうたかてアメリカはんには わからんわなぁ、いうて、ガバナンスやらコンプラやらいう西洋の呪文に、はぁスキにしなはれ、言うたんどす。

 "市民はみんな比叡山にの ぼったものだ。"  愛宕山は愛宕神社に、鞍馬山は鞍馬寺におまいりするためだが、比叡山は、"ただ、のぼるためにのぼった"。"修学院からまっすぐに急坂をのぼる、元気な 子どもたちは、みんなこの道をあがったものだ。"  山のうえでは、"おばけ屋敷などという施設が、まいとしひらかれた。”
 西陣から北白川に移 り住まはった梅棹さん。ぼくは実家が西陣やけど、小学校は北白川のもっと北の修学院で、小学校の行事で毎年その修学院から坂のぼって比叡登山させられてま した。その小学校の同級生、保育園経営日本一のJPホールディングス山口洋代表も元観光庁長官ヘンタイ溝端宏も、2コ下の前原誠司先生も、そうでした。う んと下のチュートリアルの2人もそうやったと思いますよ。
 友だち同士でケーブルでヒエザン登って、おばけ屋敷行くんは楽しかった。ウラののれん くぐって入ったらタダでんねん。バット持って、出てくるおばけどついたったら、立命か産大のバイトの兄ちゃんのおばけが真顔で「どついたろか」いうて追い かけてくる、ほんま怖いおばけ屋敷やったんです。そんなガキどもばっかりでしたけど、もうつぶれましたかな、あそこ。
 "東京、大阪では、「なん だ、学生か」とあしらわれても、京都へくれば依然として「学生はん」である。" 自由主義の温床。その思想は急進的であり、その行動は矯激である。そう書いたはります。60年安保前の文章ですもんね。でも、なんも変わってへんと思いま す。こないだ、ホンマ久しぶりに時計台のイベントに呼ばれて大学行ったら、総長の名前書いて、「○○打倒」いう看板が正門に立ってました。ぼくが学生の時 は時計台に「竹本処分粉砕」書いたあって、まだヘルメットとマスクがいたはりましたけど、2012年末ででっせ、学長打倒いう看板を正門に置いたあるて、 慶應ではえらい問題になりますな。京都では屁エでもおませんな。そのへん、スキです。京大、西部講堂、残しといとくんなはれ。

 知らなんだ、いう話もあります。
  京都の人は今の京都駅のことを、山陰線の二条駅に対して、七条駅と呼んだといいます。京都弁らしく「ひっちょえき」と発音する。"山陰線に乗るのに七条の 停車場までゆくのは、いなかものときまっていた。" --確かに、西陣界隈のひとびとは二条駅を使てましたけど、京都駅をいなかものの場とは思てませんで した。それは、かなり、深い京都人ですね。ほんでも、わからんでもないわ。それより、「しちじょう」を「ひっちょ」と読む京ことばづかいは、改めて稿を起 こします。
 御所の周辺にある京菓子店では、「売ってくれ」などといってはしかられるという話。"  「チマキのこってましたら、わけていただけまへんか」といわなければならない。御所上納ののこりものを、人民がいただくのである。" --そうなんや~。
  茶屋四郎次郎という大資本家・貿易商は、17世紀、ベトナムには大量の武具を輸出していたという話。高校の山川の日本史に名前はありましたけど、そこまで は出てませんどした。首都の工業力は軍事産業に発揮されていたということと、海のない京都に強い貿易商がおったいうことの2点を改めて感じました。
  で、皇居を移転して、儀典都市としての京都に、天皇を戻せ、という提案が出て参ります。政府みたいなやっかいなもんはいらんさかい東京に残しといたるけ ど、帝は戻しとくなはれ。上から目線と慇懃が溶け合った京都らしい提案ですな。首都機能移転より楽しく議論ができるお話やと思います。
 羅城門を再建しろ、いう提案もされてます。映画や小説であこがれたラショウモンを見に来た外国人に、「もう1000年ほどまえになくなりました」というのでは "かっこうがつきません。" なるほどなぁ。京都の先人はこういうことにこだわらはったんどすなぁ。
 ぼくもこの際、何か提案してみよかな。
 う~ん、「京大入試はスマホ持ち込みアリにしろ」でどやろ。

2017年9月4日月曜日

京都。きらい、こわい、スキ。

■京都。きらい、こわい、スキ。

 井上章一さん「京都ぎらい」。
 筆者の出身地、右京区・嵯峨がかつての都・洛中から外れた「洛外」であることに対する鬱屈がねっちゃらねっちゃら塗り込められています。

 ぼくも修学院や山科ていう京都の洛外出身です。この本には山科の男から見合い話が来て落胆する洛中の女性が登場しはります。ぼくも洛中の女をがっかりさせることがあったんかもしれませんけど身に覚えはありません。筆者ほどの被差別感を被ったこともおません。

 それは元の(母の)実家が洛中の西陣で、平安京の大内裏、太閤さんの聚楽第の中やさかい、そこに心のよすがを求めていたからかもしれません。ところがこの本には、新町御池の人が「西陣ふぜいが生意気に」と言わはる場面もあります。こうなると今の御所以外はみな敗者いうことになります。おお、こわ。

 お寺さんの写真を使うのに納金が必要で、出版社は金銀苔石(金閣寺、銀閣寺、西芳寺、龍安寺)に一枚20万円を払うならわしがあるとされています。ぼくも同じ話を出版社のかたに聞いたことがあります。法的に争うてもお寺さんが勝つとは思えへんので使てまえばええんですが、お寺さんから「バチ当たる」言われたそうです。京都では法律よりバチのほうが怖い。おお、こわ。

 ほんでも、なんか、ちゃう。もっと芯の京都のこと、聞きたい。
 京都をネタにした本は無数にあります。
 これまでもいくつかメモしました。

◯梅棹忠夫の京都案内
 芸妓・舞妓は京都のブルジョワが金に糸目をつけずに念入りに育て上げた。
 市民はみんな比叡山にただのぼるためにのぼった。
 東京、大阪では「なんだ、学生か」とあしらわれても、京都へくれば「学生はん」。

◯梅棹忠夫先生の「京ことば」
 「してごらん」は「しとおみ」、「おいで」は「おいない」、「おくれ」は「おくない」。
 「おい、タバコくれ」といういいかたは、京都では絶対にありえない。
 「すんまへんけど、タバコおくれやす」となる。

◯松田道雄さんの京都追憶
 電車が日本で初めて走った町。初めて小学校ができた町。
 京の女は小便桶に「立ち小便」する。
 スカ屁した犯人を決めつける遊びがある。

◯加藤秀俊「メディアの発生」
 岡崎法勝寺にあった九重の塔は80m、義満が建てた相国寺の七重の塔は109m。
 現存する東寺五重塔は55m。
 南北朝~室町の京都は高層都市だった。


 これらは京都学派がお元気やったころの大御所による書で、60年安保前の文章もありますさかい、懐古に過ぎるかもしれません。その点、入江敦彦さんのシリーズは最近の空気を伝えてくれます。

 入江さんにお目にかかったことはありませんが、同い年で、同じあたりに生息していたようで、そやったそやったいうネタをようけ残したはるんです。「京都人だけが知っている」「やっぱり京都人だけが知っている」「イケズの構造」「怖いこわい京都」、2001年から07年までの4冊をまとめ斜め読みメモしてみまひょ。


 「河波忠兵衛はんのCM」(「墓のない人生は、はかない人生」)。寂しい「比叡山のお化け屋敷」(出口から入るとタダです)。深泥池の東、「狐坂のヘアピンカーブ」(入江さんの父上はクルマで下らはったそうですが、ぼくらはチャリで爆走してました)。あのころ、あのへんにおったもんにはピクピクくるネタです。

 出町柳「ふたば」の豆餅。「力餅食堂」や「大力食堂」の麺とメシ。そして一乗寺界隈の京都ラーメン、「天下一品」、「珍遊」、「天天有」。パッチギの街で、そんなんこってり食べて大きなりました。たこ焼きは「三個十円」でした。「人口密度に比べ数が異常に多い」銭湯都市で、夕方は岡八郎さん花紀京さんら京都花月のポスターが貼ってある風呂屋に通てました。

 街に出るようになりました。純喫茶「築地」ではバイトを断られました。ライブハウス「磔磔」には何度も出演させてもらいました。本屋都市を代表する河原町の「駸々堂書店」や「京都書院」は90年代にバタバタ倒れましたが、今も「恵文社一乗寺店」は「デザイン、建築、映画関係は他の書店を寄せつけない」ですし、「下鴨納涼古本まつり」は名作アニメ・四畳半神話大系の冒頭にも登場します。

 京都もんにはジュワっとくる固有名詞のパレードです。


 京都は、壊され続けてきました。平清盛木曽義仲源頼朝義経足利尊氏織田信長豊臣秀吉徳川家康新選組。「よそさん」から壊滅的な打撃を受けてきました。壊したり建てたりの1200年やったんどす。ずっと壊れてない奈良とは呼吸する息の濃さがちゃうんちゃうか、思います。

 「普請負け」いう言葉が出てきます。取り壊される家のたたりで、建て替えを機に没落していくこと。入江さんは、旅でよう帽子をなくさはるらしく、自分の身代りになってくれた感覚を持たはるそうです。ぼくも実家の普請負けを見てますし、モノなくした時に身代わりおおきに感を抱きます。

 こわれること、なくなること。消えること、終わること、死ぬこと。そないなこと、あんた平気やなぁ、冷たいなぁ、言われることあるんですが、その気構えが常や、いうんが京都人なんかもしれません。


 一方、「京都人だけが知っている」で、京都とロンドンとの親和性を説かはるんですが、確かにおっしゃるとおり、観光大使はデヴィッド・ボウイさんがよかったとは思いますけど、それはどうでっしゃろ。

 「イケズの構造」で、高慢、慇懃無礼、イヤミやとしてフランス人が京都人と似た嫌われ方をしていると指摘したはります。姉妹都市、パリのほうが似てるんと違いますかね。
 「そやねえ、そう思わはるんやったら、それでえんちゃう?」
 「こんな美味しいもん、勿体のうて食べられへんわ」
 「五百年もしたら値打ち出ますやろ」
 例示されてる、これぞ京都な物言いは、英語よりフランス語でしゃべったほうがイケズな気いしません?

 ところで、その本のイラストを洛外の巨匠、ひさうちみちおさんが描いておられます。
「うんこさんか。それはな、おならとおしっこには「お」がついてるのにうんこには「お」がついてないので代わりに「さん」がついてるわけや」

 本文と関係ないこのイラスト会話が一番おもろかった、いうのも一種のイケズですか。

2013年3月25日月曜日

松田道雄さんの京都追憶

■松田道雄さんの京都追憶

松田道雄さん。1908年~1998年。京都出身の小児科医です。
梅棹忠夫さんの著書に、松田さんの本が紹介されていたので、2冊手に取ってみました。

「京の町かどから」1968年著。
 ぼくが幼いころの京都、それもなじみのある区域の様子が温かく描かれています。
 例えば「地蔵盆」。8月末の2日間、京都の子どもに許された夏休み最後の楽園です。スイカ割り、だるま落とし、くじ引き、幻灯。路地の奥で、大人たちが精一杯用意してくれたエンタテイメントを、町内の子どもたちが治外法権で遊びまくります。「三宅八幡」の縁日も登場します。比叡山のふもと、ぼくの出身小学校の学区にある神社の秋祭り。これも年に一度の、めくるめく楽しみでした。ひもを引っ張って景品を当てる屋台では、人体の神秘という、透明で内臓が見えるプラモデルが一番高額なブツで、当たらんと思いつつ引いてしまう。それより好きだったのは、串カツ。赤犬の肉と噂されていましたが、屋台のオッサンにそれを確かめる勇気はなく、でも、赤くて小さい肉っぽいものと粉っぽい衣の安っぽいあつあつのおやつを年に一度たらふく喰う、その非日常感が大好きでした。
 その前の時代の描写には、知らない話もたくさんあります。中京あたりの丁稚の悲惨さは、想像を超えるものでした。そして、同世代からみると丁稚どもが凶暴であったというのも、なるほど、想像してみればさもありなんと微笑まされます。ラオ仕替え屋、いさざ売り、焼き栗売り。昔は、うんと静かな街中に、さまざまな境遇の子どもたちや、さまざまな業種の商売人が、それぞれのトーンで声をたてていたんだろうと想像させます。町の音を聞いてみたい。そういえば以前、京都府が市街のいろんな音を、場所にひもつけて、市民から2.0的に集めてデータベース化するという素晴らしい構想を持っていたが、あれはどうなったかな。
 市立保育園の保母さんが労組を創る話も登場します。60年代でも、丁稚とまでは言わずとも、切実で過酷な労働条件だったのですね。1968年なら、ぼくが毎日、妹を松ヶ崎の保育園に迎えに行っていた。あのころ、まだみんな、暮らしは厳しかったのかな。西陣の診療所が、西陣のかたがたの互助組織として作られ、そこに共産党が乗ったという話もあります。なるほど、ぼくの祖母は西陣の共産党員で、長男(ぼくの叔父)を戦争に取られ、海軍少尉として死なせ、国家に抗う意識が強かったとぼくは見ていたのですが、案外、それよりも単に町内の互助活動をしていたところに利害の合う共産党が乗ってきたのが実態かもしれないと思いました。
 毎年上映された映画をみる会の話では、去年は「豚と軍艦」、「飼育」、「用心棒」。今年は「椿三十郎」、「雁の寺」。とあります。ああ溜め息。いいなぁ。こんなめくるめく作品と同時代を過ごすなんて。当時、黒澤さんや川島さんや今村さんの新作がかかる映画館に足を運ぶ興奮、ってどんなもんだったんでしょう。これらが後世にも燦然と輝く名作であることを、同時代の人たちは認識しながら観ていたんでしょうか。いま、そんな高ぶる経験をさせてくれる同時代コンテンツってあるでしょうか。

 分析にも目を見張ります。梅棹さんが説いていた京都語に関し、松田さんも自説を述べています。例えば、「お父さんがたたかはる」、と京都人は身内に敬語表現を使うとされるが、「はる」は第三者の行動の客体化であり、三人称単数のsと同様という。なるほど、これはすっきりします。
 京都論から派生して、日本文化論も。松田さんは、日本人は「唯一神」を信じられなかったことが文明開化の理由であり、頑強な形而上学を持たなかったからこそ、実学として西欧文化を移入し得たと言います。そう、思想にはかぶれなかったんですよね。そして、日本の親が子にソフトに対応するのは、家屋の構造に由来する。高温高湿な日本の家屋は虫かごのように開放的であり、西欧のように孤独にはなれない、と説きます。母親からいつまでも肉体的に絶縁しない風習があり、だから孤独の状態に置かれると、狐、狸、木や石の精、祖先の霊など、手を伸ばして届くところにあるものにつかまる、と言います。うむ、大人と子どもの境がないクールジャパンの源や、庶民のコミュニケーションを礎とする高いソーシャルネットワーク力の土台が、気候風土と家屋構造にあるとは思い至りませんでした。
 アメリカの社会学者リースマン教授という人がやってきたときの問答が掲載されています。「コミュニストではない急進主義者が日本にたくさんいるのはなぜか。」恐らく、日本にたくさんいたのではなくて、京大なんていう特殊なカルチェに来たからそう感じたんでしょうが、それに対し松田さんは「ビューロクラシーのないコミュニズムを信じる人は多く、アナーキズムの要素はあるが、個人主義なのにLonlyがキライだから連合する。」と答えます。小児科医の言うことかい。当時の知識人の教養レベルが半端なかったのか、フォーククルセダースを辞めて医者・学者としても大成した北山修さんのように、京都は特殊な医者を産む風土があったのか、その両方か。なんせリースマン教授の通訳は加藤秀俊さんというから恐れ入る。どうやら松田さんは久野収、末川博、桑原武夫、野間宏、水上勉といった巨人たちとつるんでいたようだが、ネットで知が連結した現在、そんな濃いコミュニティって日本にはないと思いませんか。

 こりゃあ、まずいぞ。そう思って、もう一冊。
「花洛」1975著。
 明治後期の京都の追憶。驚異の描写です。映像で記憶しておられるんだと思います。右脳に焼き付けておられたんでしょう、聖護院が、岡崎が、寺町が、その物売りが、遊びが、風俗が、暮らしが、輝くように文字で再現されます。思い出した。1995年に「脳内革命」で一世を風靡した春山茂雄さんも京都の医者の家に生まれたのですが、春山さんの話を聞いたことがあります。右脳に映像を焼き付ける家伝の秘技があり、それは教えられないんだが、それを使って受験などをくぐり抜けてきたので、東大医学部に進むときも半年だけ勉強、というか、映像記憶して、わけなく通った、と。京都の医者は、なんだかとんでもない秘密を持っているようです。
 昔の京都には、暗くて、暑くて寒くて、よそよそしくて、抹香臭く、陰気なイメージを抱いていたのですが、読み進めるうち、映像や音がわき上がり、行ってみたいなぁという憧れに満たされました。京都の市電はとうに廃止となりましたが、さらにその前に狭軌の「京電」というのが存在していたといいます。堀川通りを通っていて、どうも西陣の実家の脇を走っていたようです。生前、祖母に色あせた花電車の写真を自慢げに見せてもらったことがあります。おそらく、それだ。電車が日本で初めて走った町。初めて小学校ができた町。明治期に入って都を奪われた京都は、精一杯の負けじ魂を見せようとしたんですね。
 こちらにも知らない話がたくさん。京の女は小便桶に「立ち小便」をするのが日常だったといいます。それを大根売りと交換していたと。全く知りませんでした。てゆーか、実に見てみたい。学校では小説を読むと譴責を受けたそうです。当時のケータイ禁止令ですな。禁止しているほうは、それが正義だと思っているのは昔も今も同じ。

 松田さんは、どっぷり京都だったわけではなく、茨城出身の両親のもとで、家では関東語を話す二重文化だったそうです。だからどこか醒めた目で京都を観察できるのですね。ぼくは幼くして静岡から京都に移り、そこで重い文化転換を経験しました。別の視点から、だけどインナーとして京都を視るという感覚がぼくにはしっくりきます。
 登場する遊びも特徴があります。京都の遊びはみな特殊なメロディーを伴います。「どろじゅん」で泥棒と巡査を決める際も、一匹二匹あいのこ・取って逃げるはドロボの子、と歌いながら進めます。「下駄隠し」(そんな遊びよそにある?)の鬼も、げ~た~か~くしちゅ~ねんぼ~と歌いながら、何分もかけて決めます。はないちもんめは「たんすながもちどのこがほしい」です。だるまさんがころんだは、「ぼんさんがへをこいた」「においだらくさかつた」でした。"ハサミムシをみつけた近所の長やんが「これは男性性器をはさむ虫だ」とおしえてくれた"という記述があります。といいますか、あれは単に「ちんぽきり」という固有名詞です。
 その中に、スカ屁した犯人を決めつける遊びが紹介されています。わが同僚、菊池尚人さんが中学生のころ、同級生の室井祐月さんを陥れた怖ろしいオナラ事件のことを思い出しました。
 http://bit.ly/SiiviL

 長々と書き連ねましたが、申し上げたいことは1点。知らなかった昔の名著がポチっとAmazonで入手できる、そのありがたいこと。

2010年11月28日日曜日

教育情報化のメリット


■ Kids 教育情報化のメリット
 産業界にしろ行政などの公的分野にしろ、情報化・デジタル化の必要性や重要性が語られて久しい。梅棹忠夫氏が「情報産業論」を発表したのが1963年、アルビン・トフラー氏が「第三の波」を著したのが1980年のことです。
 効率性を高め、生産性や創造性を増し、知識やコミュニケーションを豊かにする。どの国においても、社会の各方面で情報化の効用が認知され、特にこの10年はICTが日用品化して、ごく自然に利用されるようになりました。
 しかし、その例外が教育分野です。「いったい情報化やデジタル化にはどういうメリットがあるのか?」といった議論が続けられている分野は他にはもうありません。ひょっとするとそれはもう日本だけの特殊は光景なのかもしれません。それほどまでに教育の問題は複雑であり、繊細であり、重要ということなのでしょう。
 では、教育の情報化にはどういうメリットがあるのでしょうか。授業や学習がどのように変わるというのでしょうか。

 第一に、コンテンツやアプリケーションがデジタル化することでもたらされるメリットがあります。

・ わかりやすくなる。
映像や音声が使えたり、文字を大きくしたり小さくしたりすることもできる。実物の写真をカメラで撮り込んで見せたり、自然の様子を動画で示したりできる。

・楽しくなる。
 アニメを用いたりゲーム的な教材にしたり、紙ではできない工夫が盛り込める。これにより学習意欲が向上する。

・ くりかえせる。
反復タイプの学習にはコンピュータが最適。「反復を伴う英語、算数、漢字学習からデジタル化するのがよい」(藤原和博東京学芸大学客員教授)。「ニンテンドーDSを使った百ます計算で効果を上げている」(陰山英男立命館大学教授)。

・ 創作、表現がしやすい。
絵を描いたり、音楽を奏でたり、プレゼン資料を作ったりすることができる。コンピュータは電子計算機として反復タイプの利用に威力を発揮するとともに、オーディオ・ビジュアル機として映像・音声・文字による創造・表現活動に力を示す。

 第二に、情報端末とネットワークがもたらすメリット、「つながる」ことの効用があります。効用としては、こちらのほうがより大きいでしょう。

・共有できる。
 先生や生徒が互いにつながることで、黒板を見るだけでなく手元の端末でも情報を共有しながら学べる。子どもたち同士が教え合い、学び合う協働的な学習が促進される。

・ 世界の知識を得られる。
どこに住んでいても、世界の、最新の情報にネットでアクセスできる。地域の格差なく最先端の知識を得ることができる。

・ 世界とコミュニケーションできる。
先生や生徒同士だけでなく、保護者、地域の方々とも連絡できるほか、他の学校ともつながって授業を行える。地球の裏側の子どもたちともコミュニケーションできる。

・ どこでも学べる。
モバイル端末なら教室の中だけでなく、図書室でも校庭でも、調べたり書き込んだりできる。持ち帰れるなら、家でも宿題をしたり友だちとやりとりしたりできる。

・ 個別に対応できる。
先生のパソコンでは生徒たちの学習状況が一覧で把握できるので、それぞれの進度、理解度に応じた指導がしやすくなる。学習履歴を活用することもできるため、教材も生徒たちの状況に応じて個別に違うものを与えることができる。

2013年9月23日月曜日

池田信夫 「空気」の構造(上)--日本人論の再構築

■池田信夫 「空気」の構造(上)--日本人論の再構築


「社員は優秀なのに経営者が無能!?日本の政治と企業の「失敗の本質」をさぐる。丸山眞男、山本七平の営為を踏まえ、「日本」を語るための新たな地平を模索する渾身の書き下ろし。」
 本書の帯に、そうあります。営業用に編集者が書いたと思われます。本書には「!?」てなマークはつかないからです。それより、「いま日本の政治や経済の直面している混迷は、日銀がお金を配れば解決するような簡単なものではなく、もしかすると数百年に及ぶ歴史の中で形成されてきた日本人の伝統的な意思決定や行動様式に原因があるのではないか、というのが本書のテーマである。」という著者本人の素直な紹介のほうがストンと来ます。

「空気」。原始共同体、農村社会から武士道、帝国陸軍、日本的経営、そして原発事故に至るまで、日本のタコツボ型ボトムアップ構造が空気となってわれわれ自身を縛ります。現在のような変化の時代には具合がよくありません。丸山眞男と山本七平、そして梅棹忠夫、網野善彦、中根千枝ら多彩な言説を縦糸にしつつ、経済学、政治学、人類学、民俗学などを横糸に、日本論を再構築します。
 でも、本書について、ぼくが深く論評を入れることはできません。扱われる時代も分野も広大で、縦糸も横糸も強いので、消化するのが大変すぎて。語調が軽やかなので、ふんふんと読み進めることができるのですが、それでもウッと立ち止まって考えさせられる点があり、そのいくつかのでっぱりについてコメントします。

 なお、ぼくのプロジェクトに関与する学生たちには読んでおいてほしい。政策を作る際に必要な意志決定の要諦、そしてクールジャパンを考える上での日本論の系譜。ぼくがうまく説明できないことがここにありますから。
 例えば、219ページからのわずか3枚で、天皇、内閣、元老、政党、戦後体制から現在に至る政治行政システムが濃密にまとまっています。政策屋としては、その構造と系譜は基礎の基礎。そこだけでも押さえておいてほしい。

 本書は各章の合間に「日本人の肖像」として、7人を取り上げています。福澤諭吉、北一輝、南方熊楠、岸信介、石原完爾、中内功、昭和天皇。そのリストを眺めるだけで、本編を期待させるじゃないですか。
 誤解を恐れずに言えば、北一輝ファンとしては「近代日本のもっとも重要な思想家の一人」として「福沢諭吉に匹敵する」と紹介する時点で、池田さんらしいなぁ、であります。政治家として岸信介を取り上げ、軍人として石原完爾を指名するのも池田さん的です。何より、経済人としての貴重な一枠に中内さんを抜擢するところなど、ニヤリとさせます。

 本書は、日本人論の再構築です。
「日本人は、日本人論が好きである。・・アメリカ人がアメリカ政府を論じることは多いが、「アメリカ人論」というのは聞いたことがないし、そういう議論は成立しないだろう。」そして、さまざまな日本人論が紹介されます。
 例えば、木村敏を引き合いに出し、「日本人の思考の基礎にあるのは個人主義ではなく、かといって集団の目的にメンバーが従属するという意味の集団主義でもない。人々の行動を制約するのは、それ自体は実体のない「あいだ」である」と整理されます。
 「日本人の場合、そういう大きな社会を統括する国家の生まれるのが非常に遅かった(明治以降)ため、社会を抽象的な対象としてとらえる習慣がなく、目に見える人と人の関係の集合としか見ない」、とも。
 ベネディクトが人間関係を基準とする「恥の文化」を日本人の特徴とし、中根千枝の「タテ社会」や丸山眞男の「タコツボ型」という共同体を日本的な社会構造とみるのも議論が連なります。

 ぼくが興味をそそられたのは、国民性の起源を土地や気候に求めるバリエーションとして紹介される「水社会論」。日本の農村社会の水利秩序はボトムアップだというのです。
「皇帝を中心とする水利社会では上流が集中的に水利権をもっているのに対して、日本の水社会では下流の村が決定権をもち、それを調整する組合の合意が上流の組合の意思決定を決める。いわば枝が集まって幹をつくるようなボトムアップの構造になっているのだ。」
 その構造が現代の官庁や企業にも受け継がれます。
「個々の現場がタコツボ化して、全体を統括する中枢機能が弱い。目的を設定して必要のない部分を切る全体戦略がないので、現場がいくらがんばっても収益が上がらない。意思決定が人間関係に依存しているため、指揮官は調整型になり、子飼いの部下ばかり集まる。「平時」に淡々と業務を運営するときは強いが、「有事」の危機管理に弱い。」
 この部分はおおかたが同意するのではないでしょうか。
 たくさんのタコツボ的なコミュニティーが連結していて、全体の指揮系統がハッキリしないというのは、ソーシャルメディア的ですね。バルス祭りで盛り上がる炎上大国ニッポンの社会構造は、ソーシャルメディアとの相性がよいということかもしれません。(つづく)

2014年6月2日月曜日

メディアの発生

■メディアの発生
加藤秀俊「メディアの発生」。
 ヒトやモノ、事象を「むすぶ」のが「カミ」の役割。そしてカミとヒト、ヒトとヒトをむすぶ聖職者、遊女、旅人らを「メディア」として日本各地を探訪するフィールドワークの集大成です。「梁塵秘抄」「平家物語」「太平記」などの古典を題材にしつつ、それらがいかに土俗と結ばれ、現代の文化に連続しているかを説く。それを社会学や文化人類学というよりメディア論としてとらえる。素敵です。
 冒頭、西洋に学んだ社会学の大家である加藤先生が、西洋の学者の本を難解・稚拙な日本語で注解する日本の社会学を「ぶざまで情けない」「幕末の蕃薯調所のような」「インチキ」とバッサリ斬っているのが痛快です。まず社会学からの反論を聞きたい。
 にしても加藤さんのいたころの京大人文研といえば、今西錦司、桑原武夫、梅棹忠夫、上山春平、米山俊直ら錚々たるコミュニティ。ぼく教養で米山先生の単位をもらったんですが(授業は出てない)、当時助教授だったよな。ぼく自身、こうした集大成を鏡に、自分の得てきた知見を問う時期なのでしょう。本書をテキストに、自分のコメントを加えていきたいと思います。

 踊り念仏は200人もの素っ裸の集団が一遍上人のオシッコを浴びたり飲んだりしながらのトランス状態だった。-- カルトは昔も今も大差ないのかもしれません。
 旅館でも料亭でも全て接客は女性であり、女将を頂点とする女性組織が握る。サロンの場を仕切るホステス=遊女は、遊芸と洗練された会話の持ち主で、ヒトをむすぶメディア。---日本は女性のメディア機能が高いんですね。
 「巫女」はカミ・ホトケに奉仕し、神意をヒトに伝達するメディア。聖職者たる巫女がヒトの俗世間とかかわる距離が近いと「遊女」と呼ばれた。--- 聖と俗が融合するところにメディアがあるのですね。
 「稀代のプレイ・ガール和泉式部」が芸能集団の守護神となり祀られるのが新京極の真ん中にある誓願寺で、そこがセンターとなって巫女や商人たちが全国に情報を伝播していった。-- 何百回も通ってながらお参りしたことがおません。参ります。

 語り物である「平家物語」が大ヒットとなり、これを演奏する琵琶法師たちがギルド「當道座」を結成して、著作権・演奏権などの知財権を独占した。JASRACの祖型。-- いえ、芸団協もレコ協もその他もろもろ合わせたようなもので。
 琵琶法師に検校という三位の中将と同格の官職が与えられ、平家語りの盲僧が宮廷音楽士になった。鍼灸などの医療、金融業も手がけた。73の階層を設け、検校に出世するには江戸時代で700両を要した。---異界の強力な権力機構です。
 検校には天皇・皇室、武家は厚い庇護を施し、補助金も与えた。その勧進興行には多くの観客が集まった。---貴族・武家文化と庶民文化が一体だったことがわかります。これはポップカルチャー形成の重要ポイント。
 ギルド「當道座」の祖神、人康親王は京都・山科の四宮に祀られている。---へえっ、山科が盲人の総本山とは知らなんだ。(今のぼくの実家がありまして。)
(ところで笑福亭鶴瓶師匠に慶應で留学生相手に日本語で落語を打ってもらう、というムチャな授業を企画したことがありました。やってもらったんですがね。そのときの演目が「錦木検校」。大名の跡取りが友人の盲人を最高位に出世させる人情話です。言葉がわかるはずがない留学生が泣き笑いしているのに驚きましたが、それよりも、このネタは、日本人学生に教養として聞かせなければと思いました。)

 琵琶法師、踊り念仏衆、巫女や瞽女。カミ・ホトケとヒトをむすび、ヒトとヒトをむすぶメディアはみな住所不定の非定住者。動き続けることがカミ・ホトケに近づく方法。--- ノマドのヒトがビットであり、メディアとなる。
 文字をつづるのは高度な識字層の特権で、紙・筆などハードウェア量も限られていたので、文字文芸は京都に限定されていたが、旅人による音声の文芸は各地で共有・伝搬された。--- 原始、ソーシャルメディアは文字ではなくオーラルだったわけです。
 著作権もなく、脚色、改ざん、なんでも自由自在だった。--- 千年前に著作権法があったら、貴族文化は発展したとしても、ポップカルチャーは発展しなかったでしょうねえ・・
 ゼロの焦点、寅さん、水戸黄門。いずれも「諸国漫遊の漂泊性」が身上であり、演歌も旅愁に支えられている。越境する生命力。--- ぼくも今年はあちこち越境する所存です。

 メディア史上、文字の出現はごく新しいことであり、人類はついこのあいだまで文字以前の世界で生活していた。-- コンテンツの発生は音楽、絵画、文字の順。近代メディアはその逆、印刷機、写真、レコード、の順なんですよね。
 ノンフィクション文学「太平記」の執筆者、恵鎮の本拠、平安神宮そばの岡崎法勝寺かいわいを復元する運動があったが立ち消えになった。--- 1000年前の羅生門を復元する提案もあります。京都復元プロジェクト、参加したいです。
 岡崎法勝寺にあった九重の塔は80m、義満が建てた相国寺の七重の塔は109m。現存する東寺五重塔は55m。南北朝~室町の京都は高層都市だった。-- 今は低層都市をウリにしてますけどね。550年前、先の戦争(応仁の乱)で焼けたのを逆手に取るしたたかな京都です。