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2010年7月10日土曜日

化粧した北京-2

■Buenos 化粧した北京-2
 工場から仕事を終えた制服の女工が行列で出てきました。
 ツバを吐く女。若いスッピンの女。道ばたに座り込む女。
 満たされない昭和30年代を連想します。
 しかし道路には、ワーゲンが走り、トヨタが走り、FIATが走り、シトロエンが走ります。
 ケータイの巨大な電波塔があちこちに見られます。
 五輪のため街を化粧して化粧して。きれいになりました。

2010年7月9日金曜日

化粧した北京-1

■Buenos 化粧した北京-1
 父だろうか。肩車をされている。
 日の丸の小旗を振っている。
 目の前を、聖火ランナーが左から右に走っていった。
 家に戻ると、飼い猫が死んでいた。
 これがぼくの最初の記憶。
 1964年、昭和39年、東京五輪の少し前。3歳でした。

2010年7月7日水曜日

音は大事だよね。 -2

■Pop 音は大事だよね。 -2
 むかしのアニソンって、CMも入ってましたよね。
 ぼくがこどものころの主題歌、スポンサーの名前が入ったりしてました。
「鉄人28号」とか「流星少年パピイ」とか「ロボタン」なんか、歌の最後で「グリコ・グリコ・グーリーコーッ」って言ってました。

2010年7月6日火曜日

音は大事だよね。 -1

■Pop 音は大事だよね。 -1

 バギャッ 
 ガッシュウウウゥゥゥゥゥーン
 シャキッ カチャッ スタッ ダッ 
 日本のマンガは音だらけ。とてもやかましい。特殊デザインした文字。それで音を表します。
 ピシューーーッ キュイーーーーン
 ドゴゴゴゴゴッ
 

2010年7月4日日曜日

続 京都産業大学へ行ってきたよ


■Buenos 続 京都産業大学へ行ってきたよ
 当時、京都の企業が画期的な機械を作りました。
 ニンテンドーのファミリーコンピュータといいます。
 通っていた高校の近くに本社があって、花札やトランプやラブテスターなんかを作っていた会社で、大学に落ちたら入れてもらおうと思っていました。
 でも大学を出るころには大学を出ても入れてもらえない世界企業になっていました。
 愉快なことです。

 その機械は、映像を見るだけのものから楽しむものに変えました。
 世界の茶の間を変えました。
 そのころから、テレビと電話以外のメディアが続々と生まれていきました。
 80年代のニューメデジア、90年代のマルチメディア、そしてネットとケータイ。
 さて、その次は何でしょう。
 それを作るチャンスは、学生諸君の手にあります。

 以来ぼくがやっていることは、役所にいるときも、パリでスパイをしているときも、MITにいるときも、スタンフォードでも、慶應でも25年間ずーっと同じ。
 法令を作ったり、予算プロジェクトを仕掛けたり、省庁再編に携わったり。政府を飛び出してからも、研究所を作ったり、子どものNPOを作ったり、サイネージのコンソーシアムを仕組んだり、電波の実験プロジェクトを立ち上げたり、デジタル教科書の団体を呼びかけたり。
 既存のものを引っくり返して、新しいステージを作る。という作業の繰り返し。
 そりゃあ一勝九敗かもしれませんが。
 たまに勝てればいいや。
 とりあえずいてもうたれ。
 と思ってやってきました。

 でも、もう終わってますよ。
 オッサンがあらがうのもむなしく、デジタルはティーンズの手に落ちました。
 完全にデジタルはユーザが主導する世界に成熟しました。
 みなさんが主役なのです。
 ですから、主役は主役らしく、走って、走って、パンクに引っくり返して、新しいステージを作ってください。

 てな話。

2010年7月3日土曜日

京都産業大学に行ってきたよ


■Buenos 京都産業大学に行ってきたよ
 京都産業大学。小学生のころは近くに住んでいたのですが、キャンパスに入るのは初めて。
 MBS(毎日放送)ヤングオーオーに産大の学生「あのねのね」が登場し、「赤トンボの唄」や
「氷屋のオッサンの唄」を披露したときは、腰を抜かすほどの衝撃で、高度な才能がなければ行けない大学だと怖れをなしていました。
 中学になって、KBS(近畿放送)で笑福亭鶴瓶が産大出身ということで活躍するようになってその思いは確固たるものとなりました。

 土曜日のお昼に帰ったら道頓堀アワー、松竹新喜劇を見て、京都花月の吉本新喜劇を見て、日曜には梅田花月と難波花月の吉本新喜劇を見て、お笑いネットワーク、モーレツしごき教室その他 全てのお笑い番組にチャンネルを合わせていたガキとしては、世の中のえらいひとのトップにお笑いを据えていたため、ポイントが高かったわけです。
 当時の産大は創業間もない大学であったが、今や9学部7研究科を擁する総合大学として堂々たる陣容を誇り、ノーベル賞受賞者を含む著名な先生方も並んでおられます。

 今回ぼくが呼ばれたのは、主に一年生を対象とする学部横断の授業。
 受講生の大半がティーンズ。メディア融合やデジタルサイネージについて複眼的な視点を与えて欲しい、ということだったのですが、ぬー、ぼくにできることは何だろうか、ティーンズを前に考え込みました。
 たぶんメディア融合やデジタルサイネージについて解説しても伝わりませんね。
 ぼくにできることは多分、未来からみた君たちのころのぼくについて話すことでしょう。
 
 自分が何者でもなく、何ができるかも見えない。
 大学に入ったはいいけど、そこに求めるものが転がっているわけじゃない。だから、自分で動いて、自分で作る。
 できることといえば、ギターを弾き、ベースをうならせ、ガラスを割って音を出し、奇声をあげて叫んで、転がってケンカすること。かたわら少年ナイフというバンドもやっていたが、せいぜいそんなこと。
 でも、命がけでパンクやってる年下のモヒカンを見るうち、こいつらには勝てない、音楽の赤い玉が先っちょからポロリと落ちた。じゃじゃ丸ピッコロ、ポロリ、ときどきアッチ向いてぷん。それで音楽をあきらめました。

 でもそういう連中がスキ。
 そういう連中がフルスイングできる環境を作る側に回ろう。
 じゃ、どうする。
 ということで、考えて、考えて、死ぬほど考えて、それから猛勉強して、官僚になりました。
 メディアの行政に身を置きました。  (つづく)

2010年7月1日木曜日

ローマの思い出 -2

■Buenos ローマの思い出 -2
 ヴェネトのカフェの中。二種類の男ども。そいつらにおなかや腰をすり寄せる女ども。
 男より、でかい。
 からだも、声も。
 「8 1/2」にもあんな大女が出てきたなぁ。
 海岸に住む不憫な怪女。
 サラギーナと呼ばれていました。